2018年3月4日日曜日

今日の想い 964

感情を抑えきれずに叫ぶのとは異なる、心(魂)の叫びという言い方で表現する内面がある。言葉に表現できない心の叫び、感情で表現したら貶めてしまう心の叫びがある。心の叫びを抱えていない者に神を語る資格はない。心情を語る資格はない。心の叫びこそ神様の叫びの片鱗だ。報われるとも知らない抱えきれない苦労を幾重にも重ねながら、いつ飛んでくるとも知らない理不尽な仕打ちの鞭に怯え続けながら、癒されない悲しみにふさぎ込み消え入りそうになりながら、しかしその中でこそ寄り添い分かち合う霊の存在が訪ねてくる。その御方こそ神様だ。創造主の神でも二性性相の神様でも、ましてや王冠をかぶった神様でもない私の霊の親としての神様だ。現代人は頭が肥大化し、論理で説明できないものは完全否定してかかるものだから、原理は確かに必要だったけれども、霊の親としての神様を認識した者にとって原理に帰る必要はない。心情として掴んだ神様に絶対信仰絶対愛絶対服従だ。白衣民族が恨を抱えているように、私達は心情としての心の叫びを抱えて摂理に向かうべきだ。今の自分に今の環境に満足したままで為さんとすることが為せるはずがなく、ましてや摂理の完遂など笑い話だ。そして羊と山羊の分別は実は心情という核を持っているかどうかで決められる。心情こそが核であり核のない人間は神様に根を持たない種のない人間だ。そして核爆弾ならぬ心情の核の爆発こそ世界の大変革を成し遂げる。放射能の拡散ではなく真の愛の拡散だ。心情の核爆弾の引き金は心の叫びが共鳴し合い地球の魂の器から溢れ出すことで引かれる。合わせて個々の引き金が連鎖的に引かれて、真の愛は瞬時に地球を覆い尽くす。無理矢理に慰安婦問題や徴用工問題に仕立てて騒ぎ立てるのも恨の文化からくるものだが、裕福なカナン七族に取り込まれないよう国家建設にイスラエル民族の目を向けさせることに苦心したように、実体の天一国建設にはそれに向かう動機としての心の叫びを持ちえない限り一歩も前には進めない。

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