2019年2月26日火曜日

夜昼の神様 

無意識の私と私という自覚のある意識を持つ私、すなわち夜の私と昼の私と分けられるように、神様も混沌の神々と神々を束ねて一つとする主なる神と分けられる。それが御父様が言われる夜の神様と昼の神様だ。この見解は導き出されたものではなく私という存在を突き詰めれば自ずと見えてくる見解で、よくぞ御父様は講論に記されていない神様の在り様を教えて下さったと感心した。よって宇宙も夜の宇宙と昼の宇宙があり、夜の時期と昼の時期を交互に繰り返してきた。それが夕となり朝となったと繰り返される創世記の記述だ。人間はこの世に生きているうちは昼であるけれども肉体を脱いで霊界に行けば夜を生きる。宇宙が夜昼を繰り返しながら、しかし8の字軌道でスパイラル的に次元を上げているので同じ繰り返しではないように、霊界で夜を生きて後新たな次元で地上の昼へと進路を進めて生まれる。しかしそれを単純に輪廻と言えるかどうかはわからない。ということは私はこの地上を初めて生きているように思えても既に地上生を経験している。とはいえ地上である宇宙も夜昼を繰り返し次元をあげているので周囲に見えるような同じ地上とは言えない。存在の根拠を昼の神様に見るのか夜の神様に見るのかは意見の分かれるところだが、御父様は夜の神様の主管を受けておられるから夜の神様であろうし、堕落の血統から抜け出せない人類は昼の神様に根拠を置いているということだろう。意識が地上に縛り付けられた存在で霊的無知から抜け出せないのに、どうして夜の神様を正しく理解できるだろうか。ある先輩が夜昼の神様を理解できないことを御父様に告げると、ここに書いてあるといわれて理解できないことが不思議だと言わんばかりのご様子だったらしい。どのみ言葉のことなのか定かではないが先輩にしてみれば説明している箇所さえもとんと見当がつかなかった。時系列でしか原因結果を導き出せない私であるのに、どうして時空の創造以前の存在を理解できるのかということだ。私の説明は地上的、すなわち時系列的原因結果で導き出せる説明でしかなく、御父様の理解から比べれば平面的か直線的説明でしかないが、今の私の理解度はそこ止まりであるし、それで十分だ。

2019年2月9日土曜日

創造過程は混沌から秩序への路程

み言葉の理解は霊界様相の理解の上で本質に近付ける。「平和の主人血統の主人」は預言書でもあるが未来の地上の予言というより霊視に近い。黙示録を地上的言葉として理解すれば訳がわからなくなってくるのと同様に、「平和の主人血統の主人」も地上的言葉として理解しようと思わないで御父様の霊視だと捉えて、霊界を理解しようとする意志を同時に持ち合わせながら読み解くことが必要だ。地上の現実は原因的霊界の結果的表れであるけれども、或る事の説明を比喩や例えで表そうとすると何通りにもなるように、結果に対する原因的背景は何通りもあって、よって結果の全ては既に決められているというのは正しくない。このみ言葉に表されていることが言葉通りにそのまま未来に現れるのではなく、霊視はあくまで結果に対する比喩や象徴の類のものであって、結果の在り様は決定される事実とは異なる。「平和の主人血統の主人」は既に100回以上訓読している。走り読みを含めればその何倍にもなる。最近は理解できなくて当然だと思って読み進めているので焦りはないのだが、このみ言葉の背景に段階的土台となるみ言葉があって当然で、更にそのみ言葉は「平和の主人血統の主人」の過去にさかのぼるみ言葉と後に語られるみ言葉も含まれ殆どみ言葉の全てにわたる。そうなると自分一人はおろか、数代にわたってみ言葉研究しても追いつかないだろう。結果的存在の地上人間から原因的存在としての霊界人間になれば、せめて疑問に思えた部分においては答えを得ることができるという期待もあるが、地上で解いてこそ意味があるのであってその理解に至る身悶えは混沌から秩序への創造過程だともいえる。教会の混乱の事実とそれに付随する摂理の混乱、個人の混乱も含めて、それは創造以前の混沌状態と同じであって、良心に映し出されるみ言葉の本質と照らせ合わせながら秩序立てていくことが要求されている。混沌から秩序へと後天開闢時代の基礎造りに励んでいる。

2019年2月2日土曜日

歴史的結実体

歴史的結実体という言い方をどう捉えたらいいのだろうか。歴史の中に生きている意味はわかるし、歴史を作る立場であることもわかる。しかし結実体となると関わり知れない生まれる以前の歴史と自分が生まれたことの関連性を見ることであり、さらに歴史と自分が原因と結果の関係性にあることを言っている。単純に考えれば歴史を通して血筋を繋いできた最後尾に私がいるということなのだが、血筋の結実体ではなく歴史的結実体という言い方にしたのには何かあると捉えるべきだろう。血筋を遡っていけば必ずアダムとエバに辿りつく訳で、途中で途切れることはあり得ない。歴史も遡っていけばアダムとエバの時代に辿りつくが、この場合人類全体としての一つの歴史を想起することになるが、血筋を遡る歴史となると親からその親へと倍々に増えていくわけで、振り返る過去の歴史は人類歴史という歴史一つではなくありとあらゆる歴史的流れと歴史的要素を含んでおり、そうなると歴史的結実体という場合実に複雑だと言わざるを得ない。数え切れない先祖の願いを結集した摂理的使命を受けて生まれた立場であり、また同時にこうも言え、結果存在としてのあらゆる負の原因を蕩減する立場で生まれてもいる。歴史的結実体が真の父母との因縁を持ち祝福を戴いて心情を相続し、よって新たな血統圏に組み入れられるという意味は、複雑極まりない先祖の願いを受けていた立場から天が認めて願う中心的願いに結集されるということであり、逆に私が先祖達の先祖として原因的立場となり、先祖達こそが原因である私の結果存在となるから原罪や様々な罪から解放されることになる。地上的論理では理解を超えるが、霊界は時空を超えた世界であるからその論理が当て嵌まってしまう。第四次アダム圏として立つ私達は蕩減復帰歴史の歴史的結実体から後天開闢歴史の歴史的創造者としての位置を戴いて天宙歴史の出発点にいる。神様という創造主、真の父母という創造主、そして私という創造主の創造主三代圏をして新しい天の歴史が築かれる。