2019年4月30日火曜日

霊界と地上界

ブログに対する質問として、地上の現実は原因的霊界の結果的な表れだと記述した部分に異をとなえられた。地上で歩むことを通して霊界生活の準備をしている訳だから、地上生活は原因ではないかということだ。確かに地上生活は見通せない明日の連続であり、真っ白なノートに生きた今日を記録して繋いでいくわけだが、かといって90%以上の環境圏は生まれ出でた既存の環境と昨日まで生きた自分の積み重ねも含めて決められている。地上生活は結果度9割で残りの1割が原因的なものとなる結果的過去と原因的未来の狭間にある今日と捉えた方が正解に近い。しかし注意しないといけないことは、すべてのことに対して結果的側面と原因的側面の両方があるので、意志を働かせるところ、或いは既に決められていて働かせても意味のないところ、等と区分けもできないしするべきでもない。その意味では10%といっても100%であって、自分の立ち位置を基準にして生きる意識の上では原因的地上生活を送っているというのは正しい。地球は母なる地球と言うように宇宙の胎であり、地上界は霊界の胎内だ。地上界の上に霊界があるのではなく地上界を霊界があんこ餅のように包み込んでいる。地上から夜空を見上げれば星々がちりばめられているが、何億光年も前から届いた光を見ながら創造に携わった神霊達の意志のかけらを見ている。それはちょうど胎内にいる赤子が、伝わりくる母の心音やあらゆる臓器の影響を胎壁の向こうに感じ取るのと同じだ。

2019年4月29日月曜日

カナンの地にたどり着く意味

私達は息のかかった組織や団体を離れて、まわりに食口のいない環境圏に敢えて飛び出さなければならない。そうでなければ意識的に教会の胎からいつまでも抜け出せないままだ。ひと昔であれば教会から外に出れば堕ちた離れたと信仰的敗北者の烙印を押されたわけだが、後天時代の今であれば逆に外に出ないことで教会の甘え体質にどっぷりつかり続け、新しい意識世界に産まれ出ることができない。この世であっても同じ会社に何十年もいて、さらに同じ業務にずっとついていれば時代の動きには当然疎くなる。ましてや世界観が全く異なる食口にあっては尚更だ。私達はこの世の人たちと同じ空気を吸い、同じ時間を過ごし、同じように世界や社会の動きを見てはいる。だからこの世の人たちと変わらない同じ環境圏に生きていると信じ込んでいる。同じ環境圏であることはそうかもしれない。しかし異なる環境圏を見ていることは確かだ。実際はこの世とは異なる環境圏を見ていてそこに合わせて生きている。要するに意識の在り様によって環境の捉え方も、また環境に光を当てる部分も使用する部分も異なっている。この事実に気付かないまま、意識的には教会という胎内に居座り続けるから、この世的に結果を導き出そうとしてもいつもフェイルしてしまう。この世に出てこの世に染まればいいと言っているのではない。この世と同じ世界観に生きろと言っているのでもない。今の環境圏を飛び出し、この世を俯瞰できる位置に立つべきだと言っている。もしみ言葉が正しく理解され消化されているのであれば、胎から飛び出したとしても、この世を俯瞰できる位置まで意識を高めることは当然できる。カナンの地に入ったとしても、その地の住民に感化されて染まるのであれば、それは本当の意味で神が約束されたカナンの地に入ったことにはならない。逆に彼らを感化し得る精神的息吹を起こしてこそ、霊肉共に神が約束されたカナンの地に入ったと言える。

2019年4月23日火曜日

mustか、それともwantか

どこのブログだったか地獄について考えたというのがあった。地獄に行きたくないらしいが地獄に対してどういうイメージを持っているのかどうもよくわからなかった。恐ろしいから行きたくないということなのだが、恐れを抱いていればその恐れ故にすでに地獄ではないですかとコメントしたのだが、誰であっても地獄には行きたくないはずだと返ってきた。要するに恐れを抱いて当然だろうということらしい。食口の理解の大方は霊界は自分の霊的基準の合うところに自分の意志で行くと思っていて、それで間違いはないはずだ。であればわざわざ恐ろしい地獄にいく意味がわからないのだが、霊界についての理解が暗く、悪いことをしたら地獄に行くという認識から抜けきれないでいる。原理を学んだことで論理的思考で判断しているはずだが、意外と原理以前の信じていたイメージにとらわれたままその信じ切っている内容から抜け切れず、原理で学んだにしてもその理解が歪(いびつ)になっている。御父様は地上を地上地獄と表現されている。それは地上がサタンの主権下にあるからそういう表現をされているのだが、しかし地上の人間が地獄だと実感したまま生きているとは思わない。人間の感覚はサタン主権であれば地獄で神主権であれば天国だとは言い切れない。サタン主権であろうが神主権であろうが居心地が悪ければ地獄だろう。ということは御父様はこの世であれあの世であれ地獄を感覚的なことについて触れた内容ではないということだ。韓国人は南北統一を悲願としているけれども、韓国が住みにくいからではなく感覚的な居心地以上に韓民族はお互いいがみ合うべきではなく一つになって支えあうべきという精神的な在り様に立っての悲願だ。それを思えば我々の統一運動、人類一家族運動に於いて地獄に行きたくないからとか条件を奪われたくないとかというのは感情に立っていて、より霊的な精神性の高みに立った動機ではないからそこに食口の低次元さを見てしまい落胆してしまう。430家庭の祝福活動に皆が精を出しているが、街角でサインをしてもらうのはまだ良しとしても、どこかの会員になれば我知らない祝福名簿を送ってもらえて加算されるとか、霊の子の名簿もいくらか加えられるとか、その数字合わせに対して疑問を抱く食口はいないのだろうかと思う。ただの数合わせなのか、それとも本当に祝福をしたという認識が自分の中にあるかどうかは良心が知っている。それを踏まえて、それでもやる意義があると良心の判断を仰ぎ意志するのであれば、それはそれで正しい道なのだろう。

2019年4月18日木曜日

神様をつかむ

摂理とは神様の理想に向かう霊的流れ、すなわち霊的な河だ。そしてその流れには方向性が存在しているが淀みもあれば曲折もあってその様相を時代時代に変えていくさしずめ龍としての生き物だ。私が摂理の只中にいる存在であるのはその通りでも、摂理に意志なく流されている存在なのかあるいは摂理の方向性を決める一牽引者としての存在かでは存在の在り様が異なってくる。意志する存在であれば光輝いている。人間は死ねば星になるという言い伝えがあるが恒星になるのか惑星なのか、はたまた星ともいえない宇宙の塵になるのかは人間として如何なる次元の意志を備えているかによっている。恒星存在としてその輝きを自ら発するためには、自分の歴史的使命を知り得る霊界の河から自らの光源を取り出さなければならない。意志としての光源は決して他から押し付けられて、あるいは指示されてどうこうするものではなく、他がどう思おうがあるいは生活の糧になろうがなるまいが、そのライフワークに没頭する自分を見出すことだ。み旨の歌にあるように確かにこの世の人間は時を知らずに生きている。しかし時を知っていると信じている私達が指示待ちだけの人生で意志という霊的光を放てないなら、時を知っていることが逆に恨みになるだろう。自分の使命は本当のところ何なのか、一体私はどう在りたくて何がしたいのか、結局は己の良心に問いながら見出すしかない。一生懸命神様を外に宇宙に訪ねてきたけれども、私の内なる中に神様を見出す、良心の働きとしての神様を見出した時私は神様の一意志としての私になれる。