2019年6月27日木曜日

今日の想い 1039

アメリカ帰りの食口が日本の食口間で評判が悪いのは今に始まったことではない。アメリカは自由の国だ。教会の信仰を持ったとしても信仰の自由が建国の礎になっているように、信仰を持つことで枷をはめられるのであればそれは信仰とは言わない、とさえ思っている。原理運動華やな頃はその霊的高揚の中で自らも高められると献身活動に投入しても、今のアメリカでは組織の手足や一部として自己を供えることはあり得ない。それを自己中心と呼ぶか自我の芽生えや自己の精神啓発とするかは神様に委ねるとしても、アメリカ帰りの食口はもはや日本流の組織の手足とはなれないし、それを自己中心とも思わない。日本の食口がどれほど摂理に貢献してきたかは韓国だろうがアメリカだろうが皆が納得するところで、海外の日本食口もそれは分かっている。しかし貢献しているにも拘らず摂理は進まないこともわかっている。本来なら憤って当然のはずが、それでも日本は声を発しない。それを日本以外の食口はどう捉えるかというと、声を発せず感情もないATMマシーンぐらいしか思っていない。日本食口に対する時、全体を見ることはしても喜怒哀楽を持つ一人一人として見えないから見ようとしない。個性が見えない。だから日本以外の食口は日本に対して負債も覚えていない。韓国が日本に対してあることないこと言いたい放題でありながら目に見えた抗議もしない異常な状態を許しているのも同じ図式だ。日本全体しか見えないのと、それぞれの個人が見えていてその総意として日本全体を見るのとは異なるが、どうもそれがわかっていないように思える。この日本を変えることができるのは、実は海外経験のある者達であったりするのだが、日本に留まらない世界摂理への意識であったり、国際祝福の食口も多く普通の日本人以上にグローバルであるはずの教会ですら、日本流の組織的あり方を変えられない。それでアメリカ帰りの食口は相変わらずのつまはじきだ。

心に引っかかる或る従業員

ボーイッシュに決めた短髪を揺らし、テーブルや行き交う他のサーバーを上手くかわして狭いダイニングを舞いながら接客していた。颯爽という言葉が彼女にはよく似合っていた。他の従業員が嫌がる仕事も率先して手を付け、マネージャーも従業員の誰も、彼女を悪く言う者はいなかった。もちろん客の受けもよく、彼女のテーブルを指定する客も多かった。彼女も客によく声をかけるしよく笑っていた。でも彼女を最初雇うときは一つも二つも心配があった。サーバーとして既に雇っている別の女性と一緒に住んでいて、ふたりはそういう関係だった。従業員の家族や、恋人の間柄にある者を雇うと、後々何かと問題が起こるのは経験済みで、その類の雇用はなるべく避けていた。だから彼女の時も躊躇せざるを得なかったが、通常の間柄以上の問題を抱えている。しかし当時の人手不足はどうしようもなく、結局先ず雇って様子を見ることにした。全くの杞憂だった。問題が起こるどころか店の空気を一変させて客数は日増しに増えていった。思い返してもあの時の繁盛ぶりは奇跡的だった。魔術でもかけたのかと訝るほど彼女は客を引き寄せていた。どうして彼女のような中性的なものに客は惹かれるのだろうとその理由を探していた。性差が曖昧になるのを原理的観点からは望まれない。しかし本人が持って生まれた性稟は自身でもどうにも抗えない。ひと昔前なら隠して表には出さないようにしていた彼等が、最近では公共の場でもマスコミにでも公にして現れる。これを嘆かわしいと原理原則で断罪し一蹴するのは簡単かも知れない。ではそういう彼等は救われないのだろうか。サタン的存在であって陽陽、陰陰の在り様を変えない限り食口から振り向きもされないのだろうか。祝福二世の中にも必ずいるはずで、彼等のことを思うと本人達も、そして彼等の親たちにしても、原理がわかっているが故の苦しみは地獄のはずだ。食口にも中心者にも誰にも相談できず、それぞれで悶々としながら胸を掻き毟る日々が続く。原理の神様には彼等に対して赦しはない。尋ねるまでもなく生きて地獄を味わえと払いのけられる。唯一残された道は原理を超えた神様を探して求めるしかない。原理を超えた神様を捉え、真の愛の意味を尋ね求めない限り、息をすることも許されない。

2019年6月26日水曜日

今日の想い 1038

サンデークリスチャンと 皮肉られるように、私達もサンデー食口と呼ばれる食口が多数を占めるようになれば摂理は進まない。事実、日曜礼拝に参加していれば良しとする冷めた食口は増えている。祝福活動に意識を向けるよう喝を入れられ(?)精を出している食口も多いが、かつて、祝福への願望や希望を抱き祝福を得る為に頑張り、その後に受けていた私達と、先ず祝福ありきで簡単に祝福を与えられた彼等とのこの祝福意識の乖離をどう受け止めるのか。後にテークケアするのであればまだしも、殆どはサインしてもらってそれまでで、本当に彼等に霊的生命が入るのかは甚だ疑問だ。祝福の平準化だと言われれば頷く食口も多いのかも知れないが、私自身はサインすれば祝福家庭だというのは信じ難い。訪問祝福でサインをもらう活動もしたし祝福キャンディも配ったが、それが祝福を与えたいという動機ではなく数字を報告して安堵したいという動機だったのは否めない。今の食口達は二通りある。一つは信仰に顔を変えてはいるが恐れがその本質にある教条的意識と、もう一つはその縛りからひたすら逃げるために自由の翼を得ようともがき口を開く批判意識と、しかし両方のどちらからも創造の意志は見て取れない。内的霊的にだろうが外的地上的にだろうが、右手であるアベルと左手のカインとで創り出す新たな創造を見て取れない。基元節を超えて新しい時代圏にある今でも、、。多くが老年期にある食口の一世はその役目を終えている、というか先天時代的信仰観に固定化されたまま摂理の新しいステージには立てないでいる。二世や三世の多くは教会から距離を置き、どれほど親が先天の凝り固まった信仰観で子供達に諭そうとも見向きもしない。彼等は一世達から見れば摂理と関わりなく生きているようにしか見えないが、その一世達の信仰観がいつの時代でもまかり通ると信じているからそう見えるのであって、私達の想像を超える神の意志からすればその願いに生きているのかも知れない。もちろんその認識も間違っているのかも知れないが、私の知り得ない天の意志があって当然なのは理解できる。その意味で私は祝福も受けない子供であっても神様の意志に委ねる。私の立場は彼等が助けを求める時に、どんな助けであっても犠牲も厭わず喜んで手を差し伸べることだけだ。

2019年6月8日土曜日

東洋と西洋

日本はキリスト教基盤のない国であって、食口に於いても原理の理解に東洋的仏教的要素が西洋的キリスト教的要素よりも強く働いている。それはしいて言えば感覚的なもので、よって日本を飛び出してその西洋的雰囲気の中に、ある程度染まらなければ理解できることではない。御父様を再臨主と理解する場合においても、アメリカに於ける食口の捉え方と日本の食口の捉え方は異なる。もちろん真の父母という新しい概念に関してはそれほど違いを見出せないが、再臨主の理解に限っていうと異なっている。日本食口の再臨主は再臨主という言葉は使っているけれども、どちらかというと弥勒菩薩の再来として捉えている。仏陀からの東洋的流れと、ソクラテスからの西洋的流れとの大きな違いは、仏陀の弟子達は、涅槃の境地という悟りを開いた魂が光り輝くのを仏陀の中に見て、その在り様そのままをひたすら受け入れ第二の仏陀たらんとした。しかしソクラテスの弟子達は、ソクラテスに付き従ってはいたけれども、師であるソクラテスではなく自分の魂に光り輝くものを生み出して見ようとして、その方法をソクラテスから学ぼうとした。仏陀の弟子達は仏陀の分霊として仏陀から受け取ろうとしたのであり、ソクラテスの弟子達は自分のなかに自我の霊を生まれさせ立たせようとした。ソクラテスは助産師として弟子達を手伝ったということだ。しかるに東洋の宗教は受動的であるけれども、西洋の宗教は能動的だ。仏教に見るお経や御題目のように我を忘れてひたすら唱えようとするのは、自分を無くして仏陀の魂を受け入れるためだが、キリスト教にもそれはあるにはあるが、洗礼のような儀式では我を忘れるのではなく我を体験させて魂に生み出されるものを実感しようとする。もちろん弥勒菩薩として御父様を捉えて悪いわけでも何でもないが、その意識がより働く以上、おそらく御父様に進言するような意志はその魂からは出てこない。たとえ頭を傾げるような指示であっても、何も言い返さずにそのまま受け入れるし、事実そのように御父母様に対してきた。東洋的なものと西洋的なものは一つとなるべきであり、どちらに傾くのでもなく中庸としてバランスを取る必要がある。

2019年6月1日土曜日

コンマリ

アメリカでコンマリは爆発的と言っていいほど人気がある。日本に比べれば2、3倍はある住居スペースでありながら、収納しきれないほどの物を買い貯めてクローゼットに押し込み、さらに収納専用のストレッジまで借りて、将来二度と手を付けないであろう衣服や小物やおもちゃやもともろを押し込んでいる。物を処分できないのは妻のみならず、アメリカの御婦人方の殆どが同じ症状を持っているらしい。コンマリ曰く、キュンとするものときめくものを残し、それ以外は感謝を届けた後処分する。それから収納に関しても大切なものへの感謝を表した収納を考えている。彼女がここまで意識を持つ切っ掛けが、娘が丁寧に服を畳んでいる様子をみて物への想い、愛が伝わったからだと言っている。彼女が注目される所以はこの物への愛だ。物をモノとして扱わないという、このアメリカ人にとっての目新しい意識に精神性を感じて注目されている。私もひとつの小さい頃の記憶がある。街に出ているいとこ叔父が訪ねてきて母が遅い昼食を出した。簡素な貧しい料理だったが彼は実に美味しそうに食べた。どうしてだろうかと子供ながらに考えたとき、行儀よかったこと、丁寧にゆっくり食べていたこと、そして一口一口上品に口に運んでいたこと。自分も同じようにやってみて、扱い方によって同じ食べるものでもこんなに味が違うんだと思わされた。コンマリは物への愛情が強いし、そうあることで物から受け取る美も人一倍大きいはずだ。物をモノとして見ていないし扱っていない。霊界を信じ霊的感性を取り戻そうとしている食口なら、その意識をさらに超えて、発する声を聞き新たな価値を差し出してくれるまでにならなければ本物とはいえないだろう。