サンデークリスチャンと 皮肉られるように、私達もサンデー食口と呼ばれる食口が多数を占めるようになれば摂理は進まない。事実、日曜礼拝に参加していれば良しとする冷めた食口は増えている。祝福活動に意識を向けるよう喝を入れられ(?)精を出している食口も多いが、かつて、祝福への願望や希望を抱き祝福を得る為に頑張り、その後に受けていた私達と、先ず祝福ありきで簡単に祝福を与えられた彼等とのこの祝福意識の乖離をどう受け止めるのか。後にテークケアするのであればまだしも、殆どはサインしてもらってそれまでで、本当に彼等に霊的生命が入るのかは甚だ疑問だ。祝福の平準化だと言われれば頷く食口も多いのかも知れないが、私自身はサインすれば祝福家庭だというのは信じ難い。訪問祝福でサインをもらう活動もしたし祝福キャンディも配ったが、それが祝福を与えたいという動機ではなく数字を報告して安堵したいという動機だったのは否めない。今の食口達は二通りある。一つは信仰に顔を変えてはいるが恐れがその本質にある教条的意識と、もう一つはその縛りからひたすら逃げるために自由の翼を得ようともがき口を開く批判意識と、しかし両方のどちらからも創造の意志は見て取れない。内的霊的にだろうが外的地上的にだろうが、右手であるアベルと左手のカインとで創り出す新たな創造を見て取れない。基元節を超えて新しい時代圏にある今でも、、。多くが老年期にある食口の一世はその役目を終えている、というか先天時代的信仰観に固定化されたまま摂理の新しいステージには立てないでいる。二世や三世の多くは教会から距離を置き、どれほど親が先天の凝り固まった信仰観で子供達に諭そうとも見向きもしない。彼等は一世達から見れば摂理と関わりなく生きているようにしか見えないが、その一世達の信仰観がいつの時代でもまかり通ると信じているからそう見えるのであって、私達の想像を超える神の意志からすればその願いに生きているのかも知れない。もちろんその認識も間違っているのかも知れないが、私の知り得ない天の意志があって当然なのは理解できる。その意味で私は祝福も受けない子供であっても神様の意志に委ねる。私の立場は彼等が助けを求める時に、どんな助けであっても犠牲も厭わず喜んで手を差し伸べることだけだ。
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