2019年6月8日土曜日
東洋と西洋
日本はキリスト教基盤のない国であって、食口に於いても原理の理解に東洋的仏教的要素が西洋的キリスト教的要素よりも強く働いている。それはしいて言えば感覚的なもので、よって日本を飛び出してその西洋的雰囲気の中に、ある程度染まらなければ理解できることではない。御父様を再臨主と理解する場合においても、アメリカに於ける食口の捉え方と日本の食口の捉え方は異なる。もちろん真の父母という新しい概念に関してはそれほど違いを見出せないが、再臨主の理解に限っていうと異なっている。日本食口の再臨主は再臨主という言葉は使っているけれども、どちらかというと弥勒菩薩の再来として捉えている。仏陀からの東洋的流れと、ソクラテスからの西洋的流れとの大きな違いは、仏陀の弟子達は、涅槃の境地という悟りを開いた魂が光り輝くのを仏陀の中に見て、その在り様そのままをひたすら受け入れ第二の仏陀たらんとした。しかしソクラテスの弟子達は、ソクラテスに付き従ってはいたけれども、師であるソクラテスではなく自分の魂に光り輝くものを生み出して見ようとして、その方法をソクラテスから学ぼうとした。仏陀の弟子達は仏陀の分霊として仏陀から受け取ろうとしたのであり、ソクラテスの弟子達は自分のなかに自我の霊を生まれさせ立たせようとした。ソクラテスは助産師として弟子達を手伝ったということだ。しかるに東洋の宗教は受動的であるけれども、西洋の宗教は能動的だ。仏教に見るお経や御題目のように我を忘れてひたすら唱えようとするのは、自分を無くして仏陀の魂を受け入れるためだが、キリスト教にもそれはあるにはあるが、洗礼のような儀式では我を忘れるのではなく我を体験させて魂に生み出されるものを実感しようとする。もちろん弥勒菩薩として御父様を捉えて悪いわけでも何でもないが、その意識がより働く以上、おそらく御父様に進言するような意志はその魂からは出てこない。たとえ頭を傾げるような指示であっても、何も言い返さずにそのまま受け入れるし、事実そのように御父母様に対してきた。東洋的なものと西洋的なものは一つとなるべきであり、どちらに傾くのでもなく中庸としてバランスを取る必要がある。
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