2020年1月30日木曜日

今日の想い 1052

御父母様の証人となるためには、私達はどうすれば、あるいはどうなればいいのだろうか。どんな分野にしろ成功して名を上げても、それが果たして御父母様を証したことに本当になるだろうか。もちろん関心は持ってもらえるかも知れないが、人間的な優秀さのみの証しであって人類の真の父母としての証しには至らないはずだ。私は原理で御父母様との糸を繋いでもらったから、同じように原理さえ聞いてもらえれば伝道に繋がるはずだと思い込んでいた時期がかなり長くあった。路傍で声をかけた人だけではなく従業員に対してもそうだったし、二世へのイメージが壊れた後の、自分の子供に対してもそうだった。しかしその思い込みには、論理が立てば理解した頭が意志をも立てるはずだと決めつける、人間を実に単純な存在として扱っていた。もしその捉え方で突っ走っていたら、入口は異なっていても特定の言葉を使う共産主義者達と同じ行動を取っていたはずだ。似て非なるものではなく異なってはいるが似た者同士だ。しかし真の父母の子たる身分を与えられた者として為すべきことは、地上の地位や名誉を得ることでもなく、ましてや大金持ちになることでもなく、為に生きる姿勢を見せ続けることであり為に生きる喜びと感謝を持ち続けることだ。しかし直接的な原理の押し売り、祝福の押し付けが為に生きることかというのは人によって異なり、皆同じ堕落人間と言わんばかりに一括りで対象を片付けるのは独善的だ。人間は霊的存在だ。霊的存在は常にその背後を見ようとする。すなわち行動の動機を見ようとする。祝福の本質を与えようとしているのか、ただ目標の数値を得たいだけなのか、相手は最後までその動機を見届けようとするし、それが曖昧なら何らかの救いを得たい者であっても遠ざけてしまう。祝福家庭が何人残っているか定かではないが、霊的生命としての祝福の価値以前に、伝える者の動機如何によってふるいにかけられてしまうという問題が私達にある。

2020年1月29日水曜日

今日の想い 1051

昨年まで雪害でこの季節を恨めしく過ごしたものだが、今年は気味が悪いほどの暖冬で、実に穏やかな(?)正月明けを送っている。しかし、穏やかであればあるほど嵐の前の静けさを意識せざるを得ず、おそらくその感覚は間違っていない。新型肺炎が当面の心配事としてあり、誰もが近い将来の影響を限定的なものであって欲しいと願っている。御父様は豚コレラについては触れられたことがあったが、それほどの致死的罹患ではないとしても、人から人への伝染力は他に類を見ないウイルスではある。ここ数年、日本のみならず世界的にも異常気象で、特に日本各地の台風などの水害頻度は増している。国家規模の災害が起こることを覚悟させる、その為の度重なる災害だと私には思えるし、その論理でいくと、ウイルス感染も何度か起こりながら、大波としての豚コレラに備えさせるという天の意志を感じている。今年2020年は、御母様が言われたように7年延ばしの基元節のはずで、前にも述べたはずだが基元節は大まかに3点の理解が必要だ。実体的天一国の出発、D-DAYの発令、そして連霊性教会による主管統治の3点だ。D-DAYという天の宣戦布告が実社会への影響としてどういったものになるかはわからないが、戦時下を生き抜こうとすれば誰かを頼るのではなく、己の感覚を研ぎ澄ましそれを信じて生き抜くしかない。食口達は先天時代の信仰観に囚われたまま指示を待ちながら生きている。しかしそれでは強い魂を持って戦時下を生き抜けられるとはどうしても思えない。御母様を立てるとしてもそれが決して受動的であってはならず、自らの意志と覚悟で立てるという能動的なものでなければ立つものも立たない。これから霊的な翻弄のみならず、社会や自然を含めての現実世界でも大波やうねりに翻弄させられるようになる。それに耐えられる魂としての船に私の魂がなっているかどうかのみならず、第四アダム心情圏に立つ者として、溺れる皆をも救い神が用意している新しい霊的大陸と実体の天一国に導く使命がある。それを為すに値し得る霊的柱が食口達に立ち、主体的な行動を取れるかどうかを問われている。生きたみ言葉が私の中で生きて働いているか、これからは事ある毎に問われることになる。

2020年1月2日木曜日

今日の想い 1050

「時代に翻弄されて、、」というような言い方が歴史人物を記述する際にはよく使われるが、それぞれの時代にはそれぞれの時代霊が主管していて、時代の中心人物は特にその影響を受けている。人間の志向する方向性はいつの時代も同じだと認識するのは間違いで、それぞれの時代霊に主管されてそのように動かされている。こぞって原理運動に馳せ参じた私達も実は或る時代霊の主管によって動かされてきた。自由と平等という名のもとにカインとしての共産主義が現れアベルとしての民主主義が現れたが、頭翼思想に立つ私達はアベルでもカインでもなく、先天時代を締めくくり第四次アダム心情圏に立つ者として後天時代の幕開けを喇叭する、言わば後天開闢時代に於ける洗礼ヨハネの役目を果たす群れとして天(時代霊)から招集された者達だ。御父様に身も心も、更に意思決定までも預けた私達は、カインの群れのように糧を得る術もこの世に頭角を現す能力もなく、アベルの群れのように生まれながらに純粋な心を持っているわけでもなかった。敢えて持っているものといえば自分は何も持っていないという自覚だけだろうか。しかし御母様は違う。全てを持っておられ天の公認を受けて聖霊実体として立っておられる。しかし全てを持っておられながら全てを否定されて御父様に侍ってこられた。その魂の在り様はことごとく否定され細胞のひとつひとつ、想いのひとつひとつ全てを犠牲にされた、聖霊実体とは犠牲実体かと問い直すほどだ。だからその反動で権威を立てられる事情も痛いほどにわかる私達であるべきだが、しかしそうであればあるほどイエスマンで通すのは心情圏に立った私達の姿勢ではないだろう。しかしみ言葉の論理をもってして頭ごなしに反対する食口は多くても心情に立って御母様に進言する先生はいなかった。その役目を牧師にお願いするようでは先生方といえども幼い子供から成長してはいないことを露呈している。本当は私達以上に、その何倍も歴史に、そして天の摂理に翻弄されたのが御母様だ。御母様の権威を見るのではなく犠牲を見るべきだ。