2021年5月22日土曜日

今日の想い 1100

 昨晩から、ある姉妹に投げかけた言葉とその反応がぐるぐる胸の中を巡って消化できずにいる。川の水の流れが淀みに差し掛かったところでゴミが堂々巡りしている、そんな感覚だ。随分昔のことなのだがそれでも時々頭をもたげでは私の気分を重くする。それは相手方から久方ぶりの電話がかかってきてやり取りしたときのことで、以前の最初の出会いはかれこれ30年も前のことだ。彼女が家庭を持つために日本からエリアにやってきて、私がマネージャーで勤務している店で暫く働くということで面倒見て欲しいということだった。男性とは結構障害なしにやり取りできるが、私の言動や態度に問題があるのか女性とはどうもうまくいかない。彼女もそのうちの一人だったが、何とか附かず離れずで夫の勤務している姉妹店に送った。以来夫婦もあっちこっち人事で移動しながら、電話がかかったときは自分の店を持って夫婦で営業している頃だった。久方ぶりの電話での相談は従業員とうまくいかずどうしたらいいか、というようなものだったと思う。私は咄嗟に軽い冗談で貴方も大変だったと、つかみのつもりで口にしたのだが、笑ってくれると思っていた反応とは裏腹に相手は黙りこくった。私のその一言で一瞬で凍り付いたのは受話器を通してわかった。そしてその状況を修正する言葉も見つからないまま、相手はどうもすみませんと言葉を残して電話を切ってしまった。あれから電話もよこさないし、夫である兄弟にニューヨークの集会で会うような機会もあったが、何か避けられているようで挨拶もできずじまいだった。そんな自分の自覚なしに相手を傷つけた経験は数度ある。もちろん皆女性とのやり取りだ。家庭をもった最初の頃、妻との間にも何度もあってその度に一週間にわたる無言の冷戦が繰り広げられた。それくらいの嫌われ愚痴は十分許されるほどにお互い胸を開いていると、等閑な言葉で薄っぺらい会話なぞしたくないと、こちらはそう思い込んで口を開くのだが、相手の胸はフィルターがかかっているらしく一気に固く閉ざされてしまう。しかしこれが相手が韓国人だと状況は異なり、そんな陰険さは感じたことはなく、逆に私以上にずけずけとものを言い入り込んでくる。人によると思うが、日本人の心を開くのは一般的に難しい。海外で営業している店舗で敢えて日本人を雇おうと思っている店主は少ないはずだ。ずけずけとものを言えないからだ。日本人なりの外交があるのか韓国に対して日本は変に遠慮して距離を置いている。ずけずけとものを言ったらいい。陰険にも取られて黙りこくっているものだから余計にあらぬ事実まで叫ばせることになってしまう。気まずい関係のままにしている数々の負債を、これからどう清算したらいいのだろうか。

2021年5月20日木曜日

今日の想い 1099

 天地と言う場合、天が男性的であり地は女性的だ。歴史上の預言者達は天の神霊を受け取るために内的には受動的な立場である女性、すなわち聖霊が彼等に作用している。だから神霊を受け取ることができた。キリスト教でもイエス様が召されてのちマリア信仰に重きを置かれた。それはイエス様の霊を愛し受け取ろうとすれば、聖霊的要素を自分の中に組み入れないとイエス様が訪ねられることはないからだ。御父様が実体御言葉であられ御母様は聖霊実体だという理解はあるものの、神霊となられた御父様と相対基準を為して受け取ろうとすれば、御母様信仰を通して聖霊的要素を組み入れることで、私の中に御父様の霊を受け取れる聖霊の基台をつくらなければならない。しかし御母様信仰が、ただ御父様を排して御母様を奉るとなると、方向性としては異なってくると思われるのが私が憂慮していることだ。御父様が勝利されたのは御母様が相対として立たれたが故だ。今の現実的表象がどうあれそこに疑いを持つべきではない。私達の御父母様に対する中心的想いは、霊的に勝利された御父母様であり、現実に見える仲違いや否定、たとえそれが言葉や表情に出されたとしても、それらは積み上げられてきた霊的勝利圏を瓦解させるものではない。食口は今の状況をどう捉えるかだが、敢えて一言提言するとすれば、現実的(地上的)御母様を通して霊的な御母様、すなわち聖霊実体を認識することが天の願いだということだ。霊的無知な存在が霊的な聖霊実体をそのまま認識はできない。現実をとおして霊的な事柄を見聞きしようと思えば、現実を霊的な逆説と捉えることで認識の入り口に入ることができる。何度も例にとっているが、癒えぬ病気を通して健康な時とは次元の異なる健康の有難さを知るようになる。健全者にはけっして到達できない健康に対する感謝の意志を発する。その意志で霊的な健康体を作っている。地上と霊界の逆説的意味はこの例だけに留まらずあらゆる状況に当てはまる。霊的には目に映る御母様御自身が問題ではなく、逆説的に御母様への思慕を自らの意志として育てるかだ。御母様どうされましたかと、嫌われても訴えるほどの愛する意志を育てることだ。

2021年5月11日火曜日

今日の想い 1098

 私達は様々な信仰的枷を自分に嵌めることで、内面の霊的働きを際立たせてきた。信仰的縛りをかけることで、それまで芽生えることのなかった霊的感性を呼び起こしてきた。人類はコロナ感染の蔓延で、図らずも行動規制という枷と縛りで、人類の心魂の在り様を否が応でも問わざるを得ない。人類歴史のこれまでの、特に近代歴史の総括を行動を止めることで強いられている。感染率、死亡率からしてもインフルエンザにも劣るのに何故これほどに規制されなければならないのか、そういって非難し規制を取っ払うように働きかける者も多くいる。経済活動が思うようにいかなければ困窮者も増加するだろうし、それゆえの自殺者も増えるだろう。しかしだからといって規制を取り払ってもコロナ以前の世界にはもう戻れない。人類はこの枷と縛りを甘受しながら、コロナ以前とは異なる新しい価値観、死生観、信仰観、哲学を備えて、コロナ以後を生きていかなければならない。いよいよ我々の時代だと言われればその通りなのかも知れないが、少なくとも御言葉を新しく読み直しながら、私達に於いてもコロナ以後の御言葉理解が要求されることになる。今までは字面をなどっただけの偽りの御言葉理解を、これから本当の意味で御言葉を理解していく食口こそが本物だろう。これからどれだけの年月がかかるか知れないが、これからの歩みこそが祝福家庭の本質的歩みと言っていいと思う。少なくとも私達は原理で語られる神様の存在(概念、ロゴス)を捕らえている。その理解の深みがどうであっても1と0では根本が異なる。霊的見地に立てばそれは有精卵と無精卵の違いだ。祝福家庭は霊的有精卵だ。その意味で私達は血統が異なっている。新天宙での新しい世界観は私達からしか創造されない。独善的にこの世を遺棄して歩んできて、何らの実績も何らの力もないかに見える私達であっても、それでも私達の霊人体に印を押された存在であることは霊界が否定しようがない。私達から何らの世界観が創造されないなら、この地球村と人類は壊滅せざるを得ない。人類にとっての絶望と希望を一手に引き受けているのが私達祝福家庭だ。その恐ろしいほどの自覚を私達の誰が認識しているだろうか。