私達は様々な信仰的枷を自分に嵌めることで、内面の霊的働きを際立たせてきた。信仰的縛りをかけることで、それまで芽生えることのなかった霊的感性を呼び起こしてきた。人類はコロナ感染の蔓延で、図らずも行動規制という枷と縛りで、人類の心魂の在り様を否が応でも問わざるを得ない。人類歴史のこれまでの、特に近代歴史の総括を行動を止めることで強いられている。感染率、死亡率からしてもインフルエンザにも劣るのに何故これほどに規制されなければならないのか、そういって非難し規制を取っ払うように働きかける者も多くいる。経済活動が思うようにいかなければ困窮者も増加するだろうし、それゆえの自殺者も増えるだろう。しかしだからといって規制を取り払ってもコロナ以前の世界にはもう戻れない。人類はこの枷と縛りを甘受しながら、コロナ以前とは異なる新しい価値観、死生観、信仰観、哲学を備えて、コロナ以後を生きていかなければならない。いよいよ我々の時代だと言われればその通りなのかも知れないが、少なくとも御言葉を新しく読み直しながら、私達に於いてもコロナ以後の御言葉理解が要求されることになる。今までは字面をなどっただけの偽りの御言葉理解を、これから本当の意味で御言葉を理解していく食口こそが本物だろう。これからどれだけの年月がかかるか知れないが、これからの歩みこそが祝福家庭の本質的歩みと言っていいと思う。少なくとも私達は原理で語られる神様の存在(概念、ロゴス)を捕らえている。その理解の深みがどうであっても1と0では根本が異なる。霊的見地に立てばそれは有精卵と無精卵の違いだ。祝福家庭は霊的有精卵だ。その意味で私達は血統が異なっている。新天宙での新しい世界観は私達からしか創造されない。独善的にこの世を遺棄して歩んできて、何らの実績も何らの力もないかに見える私達であっても、それでも私達の霊人体に印を押された存在であることは霊界が否定しようがない。私達から何らの世界観が創造されないなら、この地球村と人類は壊滅せざるを得ない。人類にとっての絶望と希望を一手に引き受けているのが私達祝福家庭だ。その恐ろしいほどの自覚を私達の誰が認識しているだろうか。
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