2021年9月30日木曜日

今日の想い 1110

このような観点から見るとき、みなさん自身は信仰の道に入ってきて、自分の新しい生命が発生するのを感じ、喜悦を感じ、新しい希望を感じるでしょう。「私はこのような木になり、このような人格者になり、世界の前にこのような存在になる」という決心をして立ち上がったその日からは、秋の収穫期のために準備するすべての内的な要因が、絶えることがあってはいけません。(第6章 我々と霊界の立場 地上生活と霊界より)

自分の中に新しい生命が生まれたことを認識できないのなら、何のための信仰の道だったのかということになるだろう。新しい生命は霊の種から生まれるのであって、信仰の道を通して(あるいは祝福をとおして)新しい生命の種を戴いたということだ。この新しい生命が存在目標の決心をして、結実するための内的要因を準備していく。一世であればだいたい60を超えているだろう。信仰の道を歩んできた人生の終末期に於いて、結実した人格をどのように見ているだろうか。ほぼ無駄骨だったと溜息をつきかすかすの実を露呈しているのか、騙されたと恨み辛みの悪果なのか、多くの人生教訓が身になった善果なのか、はたしてどう自分が判断し神様が判断するだろうか。献金もしっかり納め先祖解怨も祝福もした、摂理といわれて全てを捨てて投入してきたし道を外すこともなくだめだと言われることは遠ざけて守り抜いた、しかし私は自分も認め神様も認める善果なのだろうか。先ずもってどのような人格を備え世界の前にどういう存在になるという願いが本来あって願いへの決心があったのだろうか。ひょっとして惰性で流されてきた自分ではないのだろうか。惰性こそが堕落だといわれるのではないだろうか。このみ言葉は「人生の結実と生霊体」の最後にあり、「審判と公認」がその後に続いている。様々な問いや思いが出てくるのは当然で、私の中の御言葉が私自身を審判している。み言葉審判、実体審判、そして心情審判とあるが、三大審判を通過し得てこそ神様が取れる善果ということになる。

2021年9月20日月曜日

今日の想い 1109

 自我の在り様から近代史を見たときに、かの敗戦という事件以上に日本人に影響を及ぼした事件は他に見ないだろう。明治政府が立って西洋化近代化し、文明開化と言われるほどに様変わりしたのは事実だが、しかし自我の在り様がそれに伴って様変わりしたとは思わない。戦争に突入した時、一億総決起、国民一丸となって鬼畜米英に立ち向かった。それは国民それぞれに様々な思いがありながらも、国家権力に押しやられてのことであって、国民は被害者だったと言いのけることができるだろうか。事実は日本人の自我の在り様は上に倣え右に倣えで、特別に意見や思いを持つまでもないというのが日本国民大方の意識だった。それは先天時代の日本食口の在り様とよく似ている。しかし敗戦で日本人はそれまで思いだにしなかった、天皇は人間天皇だという認識を持つようになる。日本国憲法第一章第一条に謳われている、天皇は日本国民統合の象徴とあるように、神聖であって不可侵である天皇に主権があったのが突如として人間天皇になり国民に主権が在するという、日本人にとって私という意味が全く変わってしまった。それこそが敗戦の意味であり、日本国民は鬼畜米英によって自我を開放されたことになる。もちろん米英がそう仕向けたのではなく結果的にそうなったのだが、背後に日本人自我解放の天使軍が働いていたからこそだと捉えるのは、霊界を信じる私達にとって当然だろう。歴史を表面的になぞるだけでは背後の位階の高い霊的存在達の駆け引きは見届けられない。しかし後天時代に入り、良心の声が強くなり、自我存在だという認識が益々無意識圏から意識圏に引き出されれば、背後の霊界の動きが手に取るように理解できるようになるだろう。

2021年9月19日日曜日

今日の想い 1108

人間の本能として食欲、睡眠欲、性欲がある、というのは唯物論からくる説明でしかないから、思考する意味があるのかどうか疑っていたが、実は意志との関わりで欲望は否定しようにも否定できず無視できない。食欲は生命体維持のためであり、睡眠欲は魂体維持のためであり、そうなると残る性欲は自我の維持に関係している、というのは仮定として十分成り立つ。欲は主管すべきものであっても否定されるべきものではないはずだ。如何に食べるか睡眠を取るかであるように、如何に性欲と関わるかが問われることになる。殆どの先進国と言われている国々は一夫一婦制を取っている。しかし世界には一夫多妻制もあるし少数派であってもその逆もある。更にヒッピーがいうようにフリーセックスで夫婦制を否定する者もいる。更に混乱を来すのはホモセクシュアルやレズビアン、ジェンダーフリーという問題も相まって性の在り方は混沌状態だ。性でこそ新たな自我の創造はなされるけれども、人間堕落の原因でもあるという複雑な背後が性欲に関係している。食口でさえも一人の相対であるとか相対以外との関係は持たないとかという、禁欲であったり教条的なことでしか性欲を取り扱わないけれども、性に関係することはある時から最も重要な御言葉だという認識はあった。ある時から御父様の御言葉はほぼ性に関することだった。それは自我の維持と成長に大きく関係しているという仮定が正しいことを証明していないだろうか。良心の働きを自らの中に活き活きと実感する時代は、良心を通して人間は自我存在であること、更に自我と性欲と愛の三つの関係性を見通すことができる時代だといえるのではないだろうか。自我と性欲だけではなく、自我と愛、愛と性欲の三位一体の関係性で立てる新たな堕落のなかった人類を後天時代に立てようとされている。ただ表面的に言われたことに終始することで御父母様に侍ることとする盲目的私ではなく、良心の声に侍れば摂理観は自ずと立つのではないだろうか。

今日の想い 1107

 私達の祈りは祈りの体を為しているだろうか。祈りは神様との対話だ、と御言葉にはあるけれども、聞いてもらえている感覚がなくては一方通行でしかなく対話とはならない。祈っている形だけとり信仰の基本としての祈りを供えているはず、と思っているけれども、形だけの祈りは祈りではない。祈りを忘れず神様との対話をしてきた私を自分に見るのか、或いは祈ってこなかった、すなわち神様との対話を積み重ねてこなかった事実が私の現実としてあるのか、果たしてどちらだろう。祈りと実際の行動との差異が激しいと祈りは実現できないものという意識が根底で働き、意識が益々教条的方向に向かい霊的な出会いはなくなっていく。人間としての本当の喜び、人間本来の願いは霊的なものであるのに、地上的なものの獲得や堕落に根差している感情を満足させることにしか意識が向かわない。祈りの本質を取り戻すためには、敢えて祈らないという選択も必要なのかも知れない。御父様もまったく祈らない期間があったことを述べておられたが、それは祈りの本質を取り戻すためだったのだろうか。後天時代が良心の時代であるなら、祈れば良心の声が益々響いて私を導いていくはずだ。知的論理が神の如く個と全体を導いてきた近代だが、祈っても会話にならない悶々とした時代から、良心の声と対話できる時代となればどれほど摂理は進むだろう。

2021年9月17日金曜日

今日の想い 1106 (我思う、ゆえに我あり)

 我思う、ゆえに我あり。誰もが知っているデカルトの言葉だ。自分は本当に存在しているのか、私はなぜここに存在しているのか、等という問いを持つ自分が前提で問うているのであり、問う私という存在は否定できず存在しているという説明であっているかどうか。人智学によれば人間は肉身、生命体、アストラル体、そして自我という四世界にまたがり存在している存在だということだ。肉身世界のみに存在しているのが鉱物であり、生命世界までまたがる存在が植物であり、アストラル体(魂体)までもまたがるのが動物であり、そしてさらに自我、私という意識をもつ存在が人間となる。アストラル世界でも動物の魂体と人間の魂体は在り様が異なり、人間は自我存在を担う魂体を備えている。歴史を遠く遡ってみたとき、私と言う概念、私という言葉が出現した時点があるはずだが、人間の肉体の進化状況と社会性(魂)の発展段階からして私と言う概念は長い創造歴史全体の最終部分に現れたと思われる。キリストが現れる以前に私という概念は希薄だった。人間始祖の堕落によって自我を備えるに長い復帰摂理歴史を必要とした。キリスト以降、すなわちAC時代こそ私という概念は急速に明確化されるようになる。人間進化といってもいいと思うが、人間本性の復帰にキリストは切り離せないことがわかるし、自我の確立はキリストによってもたらされたと言える。そして後天時代に入ればこの自我が更に明確になり更に成長するようになる。御父様が原罪をもって生まれたかどうか、メシヤという存在なのか、人類に救いをもたらしたのか、様々な問いが投げかけられるが、しかし問題はそう問う私という存在は何なのかということ。我ありは当たり前で、更にどう或るのかということが問いを投げかける前に問われることになる。