このような観点から見るとき、みなさん自身は信仰の道に入ってきて、自分の新しい生命が発生するのを感じ、喜悦を感じ、新しい希望を感じるでしょう。「私はこのような木になり、このような人格者になり、世界の前にこのような存在になる」という決心をして立ち上がったその日からは、秋の収穫期のために準備するすべての内的な要因が、絶えることがあってはいけません。(第6章 我々と霊界の立場 地上生活と霊界より)
自分の中に新しい生命が生まれたことを認識できないのなら、何のための信仰の道だったのかということになるだろう。新しい生命は霊の種から生まれるのであって、信仰の道を通して(あるいは祝福をとおして)新しい生命の種を戴いたということだ。この新しい生命が存在目標の決心をして、結実するための内的要因を準備していく。一世であればだいたい60を超えているだろう。信仰の道を歩んできた人生の終末期に於いて、結実した人格をどのように見ているだろうか。ほぼ無駄骨だったと溜息をつきかすかすの実を露呈しているのか、騙されたと恨み辛みの悪果なのか、多くの人生教訓が身になった善果なのか、はたしてどう自分が判断し神様が判断するだろうか。献金もしっかり納め先祖解怨も祝福もした、摂理といわれて全てを捨てて投入してきたし道を外すこともなくだめだと言われることは遠ざけて守り抜いた、しかし私は自分も認め神様も認める善果なのだろうか。先ずもってどのような人格を備え世界の前にどういう存在になるという願いが本来あって願いへの決心があったのだろうか。ひょっとして惰性で流されてきた自分ではないのだろうか。惰性こそが堕落だといわれるのではないだろうか。このみ言葉は「人生の結実と生霊体」の最後にあり、「審判と公認」がその後に続いている。様々な問いや思いが出てくるのは当然で、私の中の御言葉が私自身を審判している。み言葉審判、実体審判、そして心情審判とあるが、三大審判を通過し得てこそ神様が取れる善果ということになる。