我思う、ゆえに我あり。誰もが知っているデカルトの言葉だ。自分は本当に存在しているのか、私はなぜここに存在しているのか、等という問いを持つ自分が前提で問うているのであり、問う私という存在は否定できず存在しているという説明であっているかどうか。人智学によれば人間は肉身、生命体、アストラル体、そして自我という四世界にまたがり存在している存在だということだ。肉身世界のみに存在しているのが鉱物であり、生命世界までまたがる存在が植物であり、アストラル体(魂体)までもまたがるのが動物であり、そしてさらに自我、私という意識をもつ存在が人間となる。アストラル世界でも動物の魂体と人間の魂体は在り様が異なり、人間は自我存在を担う魂体を備えている。歴史を遠く遡ってみたとき、私と言う概念、私という言葉が出現した時点があるはずだが、人間の肉体の進化状況と社会性(魂)の発展段階からして私と言う概念は長い創造歴史全体の最終部分に現れたと思われる。キリストが現れる以前に私という概念は希薄だった。人間始祖の堕落によって自我を備えるに長い復帰摂理歴史を必要とした。キリスト以降、すなわちAC時代こそ私という概念は急速に明確化されるようになる。人間進化といってもいいと思うが、人間本性の復帰にキリストは切り離せないことがわかるし、自我の確立はキリストによってもたらされたと言える。そして後天時代に入ればこの自我が更に明確になり更に成長するようになる。御父様が原罪をもって生まれたかどうか、メシヤという存在なのか、人類に救いをもたらしたのか、様々な問いが投げかけられるが、しかし問題はそう問う私という存在は何なのかということ。我ありは当たり前で、更にどう或るのかということが問いを投げかける前に問われることになる。
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