2021年9月19日日曜日

今日の想い 1107

 私達の祈りは祈りの体を為しているだろうか。祈りは神様との対話だ、と御言葉にはあるけれども、聞いてもらえている感覚がなくては一方通行でしかなく対話とはならない。祈っている形だけとり信仰の基本としての祈りを供えているはず、と思っているけれども、形だけの祈りは祈りではない。祈りを忘れず神様との対話をしてきた私を自分に見るのか、或いは祈ってこなかった、すなわち神様との対話を積み重ねてこなかった事実が私の現実としてあるのか、果たしてどちらだろう。祈りと実際の行動との差異が激しいと祈りは実現できないものという意識が根底で働き、意識が益々教条的方向に向かい霊的な出会いはなくなっていく。人間としての本当の喜び、人間本来の願いは霊的なものであるのに、地上的なものの獲得や堕落に根差している感情を満足させることにしか意識が向かわない。祈りの本質を取り戻すためには、敢えて祈らないという選択も必要なのかも知れない。御父様もまったく祈らない期間があったことを述べておられたが、それは祈りの本質を取り戻すためだったのだろうか。後天時代が良心の時代であるなら、祈れば良心の声が益々響いて私を導いていくはずだ。知的論理が神の如く個と全体を導いてきた近代だが、祈っても会話にならない悶々とした時代から、良心の声と対話できる時代となればどれほど摂理は進むだろう。

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