2021年11月23日火曜日

今日の想い 1122

 人は何のために生まれきたのかを思い出せずに、忘れている者達の何と多いことか。或る霊的に生きる力を得たいという切実な想いが、地上への生を実現しているにもかかわらず、いざ産まれて生きてみるとぽっかりとその重要な中身を思い出せないまま表面的な地上の現実に没頭してしまう。霊的である切実な想い、それは地上的には餓えであり渇きだ。私は病に翻弄され続けてきた妻を見ていてその事実を納得できた。痛みに抗い臓器を失う絶望と闘い、切望している外的な健康体に霊的力が備わっているのではなく、健康を求める飢えと渇きにこそ霊的健康への力が増していく。私自身にも何ともし難い飢えと渇きがある。40年を超えて信仰を持ちながら、未だにその飢えと渇きは癒せない。しかしそれを癒せば済む話ではなくて、それを一生抱えながら思考と感情で問答し、呻吟する日々こそが本当に求めているものの正体を暗闇の中から浮かび上がらせ、愛の本質を悟って求める力となる。偽りの愛と真の愛、それは体を屈めて堕落の底を覗きこむ私と体を反らして高い位相を目指す私、左手で開けさせる扉と右手で開ける扉、感情の下り坂に引きずられるままに一歩出してしまった左足と丹田の意志で急峻な坂道の一歩を踏み出す右足、そして四肢を失った地獄世界と、四肢と更に飛翔する翼までも用意した天国世界。泥沼から養分を得て見事な美しい花を咲かせる蓮のように、この地上地獄、難度海の泥沼の中に叡智は潜んでいる。私という花はその叡智を掴んで花咲かせる。

2021年11月18日木曜日

今日の想い 1121

私達一世は信仰の在り方を補正すべき時に来ている。太陽は等しく万人に光を注いでいる。そして注ぐ光に対して一切見返りを求めない。人間が愛の恒星存在になる為には、この太陽に学ぶ必要があり、善悪、好き嫌いの枠を超えて、誰もが受け取れる愛であるべきだ。そして与えた愛に対して一切見返りを求めてはならない。しかしこの美しすぎる生きるイメージは、現実の世界では危なっかしいものだという判断と共に備えるべきだった。私達一世は全てを投げ打ってこの道に献身した。見える見えざるとに関わらず、背負った罪と蕩減にのみ意識の光を充て続け、だから或る中心者達の中抜きであろうが献金が何に使われようがそれは天が介在して裁かれることであって、私の意識をそこに向けるべきではないというのが信仰の当然としてあった。二世からすればなんと愚かな人生だと思われても、信仰ありきでの人生だったからそうならざるを得なかった。そして信仰の拠り所は把握できず見えない霊界生活、さしむき信仰を全うすれば天国に行けるという希望だから、霊界があからさまにならない限り砂上の楼閣は崩れない。地上天国に住まわってこそ天上天国に暮らすことができる、というこの御言葉が正しいなら、本来は外的に供えて与えることよりも内的に供えて与える、すなわち霊的生命を与え真の愛を示し天の血統を繁殖させることだ。自分の人生設計もままならず生活さえもままならないのに献金という外的に供えるのは、供えているのではなくばら撒いて捨てているのと同じだ。一方で多額献金しながら、一方では与えるどころか国や地方自治に養われているようでは、二世から見れば与えられるような存在とはとても言えないだろう。しかし数十年繋いできた意識はそうそう変わるものでもない。少なくとも二世は一世を反面教師として、地上に天国を築き、天国生活を地上で歩めるよう努めて欲しい。願わくは愛の裏返しで恨みを抱かないで欲しい。

2021年11月8日月曜日

今日の想い 1120

人生は辛くて当然、苦しくて当然であり、本流に届いていない人生であれば未だ夢から覚めないまま楽しく思うのかも知れないが、人生は難度海そのものだ。仏の教えに大願成就という言葉があるが、大願とはこの世のどんな人も救われなければ仏である私も救われないということであり、その願いは成就された、よってどんな人も救われているという教えだ。南無阿弥陀仏とは弥陀に帰依しますという意味であり、その言葉をつぶやくことで弥陀の大願と通じ合えるとする。これが仏教の根本であり、帰依することで自分の中に住まわれる仏と一体となる。御言葉も同じで良心という神様が私の中に住まわれ、良心に従うことで天の心情圏の中に生きる。良心は親に勝り師に勝り神様にも勝る、という最後の結論を出されて霊界に旅立たれたけれども、真の父母の勝利圏は私達の良心の中で生きておられる真の父母だ、と私は捉えている。人生は魂をして闘いの連続だけれども、御父母様が勝利しておられるのだから良心に従えば問題ないと語られる。どんな苦労も私の心を強くするためのもの、或いは見えない愛を見えるようにするための手段であって、結局は真の父母の勝利圏内のことだから思い切り苦闘しなさいと語られる。戒律の厳しい出家に対して、普通の生活をしている者達への教えとして在家信仰が広まったように、真の愛の平準化、大衆化が摂理の流れとはならないだろうか。祝福家庭はその使命があると私は思う。在家信仰として、生きて生活する中に信心さえあれば浄土は約束されているという浄土真宗を親鸞が開いたように、真の愛の実感を生活の中で受け取れれば地上世界は大きく変わるはずだ。真の愛の革命が起こる。この苦悩の向こうに何があるのか、苦悩故に見えてくる光があれば、苦悩は希望的に超えられる。

2021年11月5日金曜日

今日の想い 1119

 感触への衝動があり色や形への憧れは確かにある。この目でなどりこの手で追いたい。しかしこの純粋らしい欲求に絡みつくありとあらゆる邪気が蠢いていて、もし願いを適えたならこれらの邪気が私を蝕む。感触を通して押し寄せ、私の霊の感性を取り込んでいく。適えた時点で消え去る幻がある。高揚の幻、そしてエロスの幻。ひとつは飛翔し、ひとつは地を這う。感性が奪われてしまえばそれらは幻となって消え去る。薬や交わりに直接かかわらなくとも、その幻は常に私に付いて回る。幻が消え去ると憧れは色あせ、味気ない現実に佇む。砂を噛むような現実空間の中に人々は嘘笑いの日々を送る。自己の境界を超えることができない者はそのような地上地獄に生活している。しかし同じ現実空間の中に棲みながらも、五感を超えた感性を獲得した者がいる。幻を追わずに真実を感じる感性で天国を築き、同じ現実空間でありながら地上天国に生活する。五感を超えた感性は霊の感性、真の愛の感性。それは結果の世界ではなく原因世界に身を置くことで得られる感性。私自身が原因になること。私自身が原因存在として愛の基、愛の恒星となること。天から試練を受けるのは自身が愛から発し愛を相続したものかどうか、その疑いをかけられた立場だけれども、その蕩減的位置を超えて創造的位置で自由に自らの愛の光を発する位置で、天に期待を持たれて待ってもらえる時代に立っている。束縛なく自由に愛を与えられる時代でありながら、与えることに躊躇する者は、先天時代に足踏みしたまま地上地獄に継続して棲み、嘘笑いしながら生活している。