教会は三分裂したと否定的な意味で捉えているのが大方だろう。実態を見るなら三分裂どころか家庭の数だけ分かれた状態に今あると言っても過言ではない。否定的に捉えるのは元の状態こそが正しいと判断する先天の教会観が備わっているからだが、様々な位置や位相があってどの観が正しいとは一概に言えない。私としては分裂という言い方は首をひねるとしても、分かれて存在しているのは食口達にとってたいそう有り難いことだと思っている。一極集中が摂理を推し進める場合もあるだろうが、そこには敢えて口を閉じ、抑え込められた摂理発展の芽も幾多あることもまた事実だ。御父様という一大理想が実体として存在していたから一極集中も有り得たわけだが、御存命であっても90を超えられていて、中心的摂理にのみ全体が呑み込まれる一極集中の期間は既に限界が来ていた。分裂を反逆と見るか正分合の分と見るかは何処に立っての観方かによって変わってくる。アボジの願いはそれぞれの良心に宿っていて、個々の良心に従うことで自ずと全体の救援摂理も進展していく。後天時代の私の信仰はそれを信じる信仰だ。私自身の良心も立てると同時に、他の食口もそれぞれの良心を立てて歩んでいると信じて彼等に接する。この世でも人々は多様性の時代だと口にしているように、食口の摂理観もそれぞれで異なる多様性の時代だ。その認識上で最も注意すべきことが何かというと、先天の教条的な自分が囁く「お前は罪人だ」という説得であり洗脳だ。その囁きには「先天はそう言われ続け、そのように信じ行動したけれども私自身の霊の成長はなかった。もやはその囁きに対して相対はしない」と断言して新しい魂の自分を飛び立たせるべきだ。
2021年12月26日日曜日
2021年12月18日土曜日
今日の想い 1125
人は「楽しみ」と「喜び」を混同したままでいると霊的無知から脱却できず、よって霊的成長もない。「楽しみ」は地上世界に既に存在していて欲するものを受け取る、即ち受動的であり、「喜び」は地上世界に未だ存在しない霊界の朧を地上世界に輪郭を持たせて創造する、即ち能動的だ。性を含めた快楽そのものは受動的であり、それ自身を求めることには地上世界に没頭はしても魂を発展させる精神の向上とはならない。しかし宗教戒律によって快楽を否定したところで、それが即魂発展の精神向上ともならない。楽しみの否定が喜びではなく、創造こそが喜びだ。創造という概念も俗に何か目新しいものやシステムを作るという地上的捉え方ではなく、新たな愛の表象をいう。愛の表象は光の表象でもある。自由という概念も実に利己主義的な昔の軽いものから、責任を伴う重い自由という神が関与できる愛による自由という認識に至った背景には、新たな道徳意識という愛の表象が創造されたからだ。愛という言葉を聞いて普通にイメージできるものは実は愛ではない。ある切羽詰まった局面に追い詰められて、自分の内面の力の足り無さを克服する過程で、内面の更に奥からその力を絞り出そうとすればそれは愛だ。親を愛するというのであれば、下の世話もし認知欠落で言っても効かない親の介護でヘトヘトになりながら、それでも面倒みようとするとき親を愛するという本当の愛を創出することになる。人は困難な中でこそ霊的である光、それは地上的には愛を創造でき、創造主である神の子として立つことができる。いつも言うように地上生は難度海そのものだ。困難な中に更に追い打ちをかけるように困難の大波が押し寄せる。しかし霊界から見ればそれは人間が創造できる環境圏であり、その環境圏に立たされたことは神に任され信頼された立場だ。
2021年12月14日火曜日
今日の想い 1124
地上に於いて霊界の門が開いた、という意味は霊界の影響を直接間接に受けやすくなったということだ。このコロナの問題も霊界の門が開いて影響を受けやすくなったが故に蔓延している。コロナは現人間社会に取って災いがどうかといえば、災いには違いない。それは恐れの蔓延であり今までの社会秩序の無効だ。しかしこの事実は、人類は変わらなければならない、或いは社会は悪に満ちていると認識している立場であれば絶好の転換期に違いない。恐れ故に病と死を見つめざるを得ない。健康と病、生と死を問わざるを得ない。今までの社会秩序が壊されて新たな秩序が構築されなければならない。それは今までのような実利一辺倒の唯物的社会とは異なる新たな人類理想の様相を踏まえている。新社会への過渡期にGAFAだけが独り勝ちのようにも見受けられるが、実は様々な分野に於いて様々な企業の試みが為されている。今までは死や霊界にさわらず触れずで、地上生活あるのみ、よって幸福も物と外的環境のみに頼っているという主義思想に合わせてその試みは為されてきたが、このコロナ禍で人々の思考の方向性は確実に変わりつつあり、それに合わせて社会の様相も変わりつつある。すでに冠婚葬祭の在り方から異なってきている。かつてのような大仰な葬式はなくなった。これはコロナが収束してももう元通りになることはない。ある意味今までの立派な葬式のやり方は世間体でしかなかった。故人を悼む気持ち以上に生きて生活している者達の体裁に拘ったからだ。人々の関心は本質的な事柄に向かい、それに合わせて社会生活も異なってくる。
2021年12月8日水曜日
今日の想い 1123
女性性は受動的であり男性性は能動的だ。神霊を受け取ろうとし自らの中にその種を宿そうとすれば横的に構えて縦的神霊を垂直に受け取る必要がある。しかしその種を霊として立たせるためには、縦的に構えて横的世界の地上界でしっかり垂直に立つ必要がある。天に対しては受動的であり地に対しては逆に能動的であるべきだ。受け取るべき神霊がわからず、立てて育てるべき霊の種子がわからない、すなわち霊的無知故に信仰の混乱を来してしまう。内外の条件を供えて祝福を受けた立場は堕落のない霊の種を戴いた立場だ。しかし問題はその種を霊として立てて育てるということであり、能動的な位置で地上世界という畑を耕さなければならない。地上生に於ける様々な内外の環境圏を養分に、喜怒哀楽という愛の汗と涙で魂を満たしてこそ神霊の子として精神が育ち立つことができる。そういった幾らかでも霊的感性と霊的知があるなら信仰の迷路に迷い込むことはないだろう。何某かの宗教に帰依するならそれは当人にとって必要なことだろう。もちろん統一食口も何処に籍を置き誰に帰依するにしても当人にとっては必要なことだろう。しかしその環境要因に身を置くことで全てが解決する訳ではなく、ただ鍬を入れ始めただけのことだという認識は持つべきだ。どんな川や支流を選ぼうとも、人は必ず人生の流れを終えて大海である同じ霊界に籍を置く。誰が正しいかどうかの問題ではなく、批判したりレッテルを貼った対象人物も含めて一切が私の内的環境になり私の内的世界が外界になる。私という輪郭の外と内とが入れ替わる。