2023年12月28日木曜日

今日の想い 1282

 今は高台に立ち見下ろして講義や説教をする時代ではない。講義を聞くよりは遺言として残された八大教材を訓読したほうがいいし、説教を受けるよりは互いの恩恵や証を交換するほうがいい。受ける時代ではなく与える時代、常に言っているように受動的な態度ではなく能動的な姿勢でこそ心霊が成長する時代であって、受け身の態度で心霊を啓発されたり知情意を誘発されることはない。一世にすれば、修練会や講義で感動し心霊が高まった、そんな復帰された当時の体験こそ信仰生活のあるべき姿だという思い込みがあるのだろうが、モーセやアボジに代わる宗教的指導者が常に先頭に立っていつの時代も私達を引っ張り続けるというのであれば、私の中に神が働きその内的衝動で摂理を牽引するというような直接主管圏は永遠に訪れることはない。教会組織と体制が今の時代に合わないことは明らかなのに、それでもそこに固執すれば様々な留まる負の淀みにサタンが居付くことは言うに及ばない。み言葉を切り取らずに流してこそ訓読であるし、摂理も河のように流れてこそ本然の目的に向かうはずだ。イスラエル民族がカナンの地に定住しながら、この世的文化に浸透され摂理を忘れて堕落してしまったと牧会者は言うけれども、この世的文化を否定して世捨て人になることで摂理が進むとは一世も思っていない。カイン文化は否定せずに大いに学ぶべきだろう。アベル文化を知っている者がカイン文化を学んで二つを統合することで次元の異なる文化を創造してこそ神の願いに応えることができるというものだ。牧会者の話にはどうもカイン的文化に触れてしまえば堕落するからと恐れさせて創造本性を抑え込み堕落圏に押し込む意図がうかがえる。おそらく本人にはその認識はないのかも知れないが、そこが柔軟性のない信仰で雁字搦めにされていてこの世を受け入れないことの方を良しとしている。様々な他の宗教と同じ問題が私達の教会にも少なからずある。

2023年12月24日日曜日

今日の想い 1281

 私達はこれまで、事ある毎に幾度も幾度も修練会に参加し学んできた。基本は常に原理関連の講義があって、最後に新しい事柄が付け加えられるという段取りが組まれる。それは新たな摂理的取り組みであったり、大会や宣言の説明であったり、献金要請であったり、なのだが、参加すればそれなりの高揚感を覚えることができた。しかし修練会を終えて帰途に着けば、何ら変わらない日々の煩わしさや日常に次第に埋没してしまう。信仰していれば愛の人格が高まるのではないように、どれだけ修練会を重ねても意識はそうそう高まることはない。修練会という団体行動は基本組織全体の目的達成の為の全体意識の一体を目論むツールだと思う。修練会が機能するのは献身生活で皆が集まって同じ行動をするからこそ機能するのであって、家庭を持ち、それぞれの家庭にはそれぞれの事情や家庭の雰囲気がある状況では十把一絡げとはならない。そうなると小規模な家庭教会で内外の恩恵交換をしながら、生活に根差した信仰や霊的意識や感性の醸成が為されるべきだろう。ようするに修練会で大上段から語られる内容と、日々の生活や家庭や社会の段階で解決すべき事柄との乖離が大きすぎて意味を持たなくなっている。御母様の言葉は霊的摂理の根本を変えてしまうほどの重大事項にも関わらず、さして異を唱えるでも、談判祈祷して天に尋ねるでも、また喧々諤々の論議が為されるでもなく、何となく皆が受け入れている風を見るのはそういうことだと思う。教会の使命は終わっている。聖書を見れば使命を得た者達の歩みは華々しくとも、使命を終えてしまうとろうそくの火が消えるような儚さがある。教会摂理と共に生きてきた一世も同じように拳を突き上げる元気もなく、儚く、そして静かに消えていくのだろう。老いていくのは誰も避けられない時の摂理でありながら、走りながら倒れて死ぬことはあっても老いて死ぬことなど私達の意識にはなかったはずだ。しかし老いという時の摂理に従わざるを得ないこの身であることを、一世達は今しみじみと受け取りながら、ひとり、またひとりと地上を去っていく。一世であればこの方の講義を聞かなかった者は誰ひとりいないだろう。周藤先生ご苦労様でした。

2023年12月11日月曜日

今日の想い 1280

 聖書に、信仰と希望と愛、この中で最も尊いものは愛だと記されている。私達のみ言葉にも愛が最も尊いとあるのは食口皆が知っていることだ。であるにも関わらず事実として、私達は常に信仰第一であり絶対信仰であり、これまで愛を信仰以上に捉えて歩んできたことがあるだろうか。神様の本質が愛であるにもかかわらず、その神様がわからないから教えられるイメージを神様と捉え、そしてそれを信じ、信じたが故の歩みを続けてきた。しかしそれはどこまでも信仰第一であって、信仰故の二次的愛であって、それは時に愛の本質とは異なっている。それ故に愛の本質であられる神様の摂理の中心的位置に常に教会や私達があるとはいえない。聖書に信仰と希望と愛というように、敢えて別のもののように記してあるのはそれなりの理由があるはずだ。かの教団が信仰故にとんでもない間違いを犯したことを見れば、信仰があればそこに愛があるとならないのは明白だ。その意味で信仰と愛とは別物だ。聖書に、人を愛しなさいとはあるけれども、人を信じなさいとの教えはどこにもない。信仰で愛が育つのではなく、どこまでも愛することで私の中に愛が育つはずだ。私達は未だに自分達の非を認めず、どこまでも戦う姿勢を示しているけれども、信仰故の独善を立てたところで神がそれを用いられる、すなわち受け取られるとはどうしても思えない。しかし私は教会の全てが間違いであったとは思えない。そうではなくキリスト教の基盤のない日本人の私達に信仰の基礎を染み込ませることができた歩みであり、その信仰基台の上での実体基台ともいえる愛するステージに立つことができた。確かに悉く否定されてきた日本食口であったし凄まじい蕩減路程であったが、今その蕩減を超えて建設の時代圏、後天時代を歩んでいる。2023年のクリスマスを迎えるにあたり、天から与えられたこの福音を日本食口に伝えたい。

2023年12月8日金曜日

今日の想い 1279

今回のシンポジウムを見てみても、やはり二世は良くも悪くも若かりし時の一世のような覇気もないし毒気もないと感じた。おそらく二世教育がどうのこうのと言うより、多くの一世が高齢出産のために、子供といっても孫を育てているような感覚がそうさせたのではないかと思う。一世は摂理摂理で多分に疲れ果て、一般人以上に精神的疲労度は高いはずで、そんな一世に摂理観を二世に教え込むのは容易いことではない。そういう自分だって早々に匙を投げた部類の人間だ。おそらく参加していた二世は学歴も高く、それなりの高所得企業に勤めているのだろうが、摂理に命懸けというより他の宗教信者のように心の拠り所としての信仰なのだろうと思われた。一世がしきりに尻を叩かれ急かされて、睡眠時間も削ってノルマに追いまくられるというような、そんな摂理的喫緊的事情はなくなったのか、それともそういう方針では無理だと認識されたのか、どちらにしても流れはカナン的生活に食口も入り、教会も社会に合わせざるを得ない立場に立っている。しかし摂理的喫緊的課題は一教会が負うのではなく、社会や国や世界という人類全てが負うような状況になっている。先回記したように、世界の経済のファンダメンタルが崩壊寸前にあることを思えば、私達の献身的歩みが摂理に貢献したかどうかとは別に、D-DAYの発令の如く摂理を人類すべてが請け負うという時を迎えているのだろう。地獄を潜り抜けてきた食口達にすれば、年金もないし耳パンをかじる時代に遡るだけで経済破綻も何のそのだが、普通に生きて普通に生活していた者からすれば生活不安は地獄を味わう思いだろう。問題は摂理観のない一般化された二世達だが、これからの恐慌時代を乗り越えるためには、’それこそ一世達の経験が生きて指針となるはずだ。さらに二世達のみならず普通の人々にも影響を与えられるはずだ。神の御意は私達の思い及ばないところにあるし、独善的だった傲慢な選民意識を悔い改めれば御意に応えられる私達になれるし、アボジの号令の下に訓練してきた私達を手放されることはない。

今日の想い 1278

 始める表向きの理由はそれぞれあれど、すべての争いの背後には必ず経済的利権が関わってくる。しかしウクライナ戦争もハマスイスラエル戦争も、理念や文化の違いから起こったというよりは明らかに表向きの通貨利権であり、80年近く続いたドル基軸、すなわちドル一局通貨による経済支配を守る側の闘いであるし、ドルに抗う通貨による攻めの闘いでもある。ウクライナ戦争を仕掛けたのがDSであるように、その敗戦色が明らかになってきたからハマスイスラエル戦争に鞍替えした。しかし彼等にとって戦況はどうも芳しくないらしく、そうなると今度は東アジアに戦いの場を移すことになるのだろうか。しかし問題は基軸通貨として機能させるにはあまりにも通貨価値を薄めすぎた。通貨自体が弱いので戦争で力で抑え込んでも所詮無理だろう。リーマンショックの時点で、長らく続いたモノ売買主導ではなく債権売買主導の金融経済に傾いた大きな歪を正さなければならなかったにも拘わらず、やったことは4回のQEによる更なる莫大な債権を発出することで延命を施したのであり、結果金融バブルを何倍にも巨大化させてしまった。風船を大きくすればするほど破裂しやすいのであり、その破裂はより巨大なものとなる。既にバブルは最大化されているのに、此度のコロナショックによる更なる巨大化はバブル崩壊による強烈な冷え込みを覚悟する必要がある。物価のインフレはその前兆に過ぎない。この未曾有の破壊力に耐えようとすれば、ここまで成長させてきた経済の実質的死を受け入れて超える必要があり、超えて蘇らせなければならない。次なる経済は一局体制から多極体制になるはずだが、そうなると一体何が変わるだろうか。想像を超えていてそれこそ神のみぞ知る、だ。