2023年12月24日日曜日

今日の想い 1281

 私達はこれまで、事ある毎に幾度も幾度も修練会に参加し学んできた。基本は常に原理関連の講義があって、最後に新しい事柄が付け加えられるという段取りが組まれる。それは新たな摂理的取り組みであったり、大会や宣言の説明であったり、献金要請であったり、なのだが、参加すればそれなりの高揚感を覚えることができた。しかし修練会を終えて帰途に着けば、何ら変わらない日々の煩わしさや日常に次第に埋没してしまう。信仰していれば愛の人格が高まるのではないように、どれだけ修練会を重ねても意識はそうそう高まることはない。修練会という団体行動は基本組織全体の目的達成の為の全体意識の一体を目論むツールだと思う。修練会が機能するのは献身生活で皆が集まって同じ行動をするからこそ機能するのであって、家庭を持ち、それぞれの家庭にはそれぞれの事情や家庭の雰囲気がある状況では十把一絡げとはならない。そうなると小規模な家庭教会で内外の恩恵交換をしながら、生活に根差した信仰や霊的意識や感性の醸成が為されるべきだろう。ようするに修練会で大上段から語られる内容と、日々の生活や家庭や社会の段階で解決すべき事柄との乖離が大きすぎて意味を持たなくなっている。御母様の言葉は霊的摂理の根本を変えてしまうほどの重大事項にも関わらず、さして異を唱えるでも、談判祈祷して天に尋ねるでも、また喧々諤々の論議が為されるでもなく、何となく皆が受け入れている風を見るのはそういうことだと思う。教会の使命は終わっている。聖書を見れば使命を得た者達の歩みは華々しくとも、使命を終えてしまうとろうそくの火が消えるような儚さがある。教会摂理と共に生きてきた一世も同じように拳を突き上げる元気もなく、儚く、そして静かに消えていくのだろう。老いていくのは誰も避けられない時の摂理でありながら、走りながら倒れて死ぬことはあっても老いて死ぬことなど私達の意識にはなかったはずだ。しかし老いという時の摂理に従わざるを得ないこの身であることを、一世達は今しみじみと受け取りながら、ひとり、またひとりと地上を去っていく。一世であればこの方の講義を聞かなかった者は誰ひとりいないだろう。周藤先生ご苦労様でした。

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