今回のシンポジウムを見てみても、やはり二世は良くも悪くも若かりし時の一世のような覇気もないし毒気もないと感じた。おそらく二世教育がどうのこうのと言うより、多くの一世が高齢出産のために、子供といっても孫を育てているような感覚がそうさせたのではないかと思う。一世は摂理摂理で多分に疲れ果て、一般人以上に精神的疲労度は高いはずで、そんな一世に摂理観を二世に教え込むのは容易いことではない。そういう自分だって早々に匙を投げた部類の人間だ。おそらく参加していた二世は学歴も高く、それなりの高所得企業に勤めているのだろうが、摂理に命懸けというより他の宗教信者のように心の拠り所としての信仰なのだろうと思われた。一世がしきりに尻を叩かれ急かされて、睡眠時間も削ってノルマに追いまくられるというような、そんな摂理的喫緊的事情はなくなったのか、それともそういう方針では無理だと認識されたのか、どちらにしても流れはカナン的生活に食口も入り、教会も社会に合わせざるを得ない立場に立っている。しかし摂理的喫緊的課題は一教会が負うのではなく、社会や国や世界という人類全てが負うような状況になっている。先回記したように、世界の経済のファンダメンタルが崩壊寸前にあることを思えば、私達の献身的歩みが摂理に貢献したかどうかとは別に、D-DAYの発令の如く摂理を人類すべてが請け負うという時を迎えているのだろう。地獄を潜り抜けてきた食口達にすれば、年金もないし耳パンをかじる時代に遡るだけで経済破綻も何のそのだが、普通に生きて普通に生活していた者からすれば生活不安は地獄を味わう思いだろう。問題は摂理観のない一般化された二世達だが、これからの恐慌時代を乗り越えるためには、’それこそ一世達の経験が生きて指針となるはずだ。さらに二世達のみならず普通の人々にも影響を与えられるはずだ。神の御意は私達の思い及ばないところにあるし、独善的だった傲慢な選民意識を悔い改めれば御意に応えられる私達になれるし、アボジの号令の下に訓練してきた私達を手放されることはない。
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