聖書に、信仰と希望と愛、この中で最も尊いものは愛だと記されている。私達のみ言葉にも愛が最も尊いとあるのは食口皆が知っていることだ。であるにも関わらず事実として、私達は常に信仰第一であり絶対信仰であり、これまで愛を信仰以上に捉えて歩んできたことがあるだろうか。神様の本質が愛であるにもかかわらず、その神様がわからないから教えられるイメージを神様と捉え、そしてそれを信じ、信じたが故の歩みを続けてきた。しかしそれはどこまでも信仰第一であって、信仰故の二次的愛であって、それは時に愛の本質とは異なっている。それ故に愛の本質であられる神様の摂理の中心的位置に常に教会や私達があるとはいえない。聖書に信仰と希望と愛というように、敢えて別のもののように記してあるのはそれなりの理由があるはずだ。かの教団が信仰故にとんでもない間違いを犯したことを見れば、信仰があればそこに愛があるとならないのは明白だ。その意味で信仰と愛とは別物だ。聖書に、人を愛しなさいとはあるけれども、人を信じなさいとの教えはどこにもない。信仰で愛が育つのではなく、どこまでも愛することで私の中に愛が育つはずだ。私達は未だに自分達の非を認めず、どこまでも戦う姿勢を示しているけれども、信仰故の独善を立てたところで神がそれを用いられる、すなわち受け取られるとはどうしても思えない。しかし私は教会の全てが間違いであったとは思えない。そうではなくキリスト教の基盤のない日本人の私達に信仰の基礎を染み込ませることができた歩みであり、その信仰基台の上での実体基台ともいえる愛するステージに立つことができた。確かに悉く否定されてきた日本食口であったし凄まじい蕩減路程であったが、今その蕩減を超えて建設の時代圏、後天時代を歩んでいる。2023年のクリスマスを迎えるにあたり、天から与えられたこの福音を日本食口に伝えたい。
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