2024年1月23日火曜日

今日の想い 1284

 拉致監禁に対してダンマリを決め込むのはメディアであり霊感弁連達だが、それでは教会側がどれほど拉致監禁の事実を世に問うてきたかというと、それがまた心もとない。敢えてダンマリを決め込んできた訳ではないけれども、教会側も強く世に訴えることはしてこなかった。アボジの要請が摂理であったし、摂理第一であればそこに全意識を集中させていたから、敢えて二次的な対策しか取らなかった、と言うことなのだろう。私は中心的位置にいなかったので大した情報も来なかったしそうだろうと言うしかない。しかしこれほど多発した事件であり人権問題であるなら教会側も打って出るべきなのに、それが随分と消極的だったのは藪蛇でこちら側の痛いところを探られたくないという計算が働いたからだろう。霊感何某も突かれたくなかったろうし、当時の献身生活にしても拉致監禁には及ばないが人権尊重とは程遠かった。しかし最も大きな案件は何と言っても金の流れだろう。摂理はサタンとの闘いであるから、人権だの善悪だの振り上げるつもりはないが、鳩のように素直なのはいいとしても合わせて蛇のように狡猾であるべきで、せめて痛いところを突かれないだけの狡猾さは備えるべきだった。教会組織の底辺にいる者でさえ、このまま続けられるはずのないことは誰もがわかっていたはずだ。精神的なゆだねる信仰と地上現実的な無責任とを混同すべきではない。これほどの危機的状況にも関わらず、教会食口の根拠のない明るさや裏付けのない安心感を見るにつけ、信仰と現実、霊的な事と地上的な事を混同していると言わざるを得ない。お花畑と揶揄される私達のそういった信仰は、地上に於いて天国を築こうと自らで意志し、責任を取る者達とは乖離しているし、そんな私達が摂理を担い地上天国を完成できるとはさすがに思っていない。どうして食口達がこれほどに摂理観を持つに至らなかったのかを私はアボジに問いたい。

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