2024年2月7日水曜日

今日の想い 1285

 人間の魂の活動は知情意であることは食口なら誰でも知っている。しかし知情意は並列的に捉えるものではなく、知と情の授受によって意を起こすのであり、意を起こすことが創造領域に組み込まれる。私達の何気ない行動も意ではあるが、それは私自身にしろ人類歴史上にしろ過去の創造の反復であってそれは創造の本意とは異なっている。創造と認められる領域に入ろうとすれば習慣性を超えなければならないし、そのためには今の自らの情を超えて発動する新しい情を培う必要がある。新しい情を備えようとすればそこに確実に恐れが邪魔をするだろうし、その恐れを甘受し超えなければならない。私達は心情という概念を持っている。知識に対して叡智があるように情(感情)に対して心情がある。偉人は何らかの叡智を受け止めて人類に寄与してきたが、私達は天の心情を受け止めることで人類に寄与するのであり、それでこそ神人類としての証が立つというものだ。私達の創造は地上的技術ではなく、精神的なものでありそれは霊的感性を地上に降ろすことにある。霊が見えたり聞こえたりというような物質的に捉えて貶められた霊感ではなく、心情を備えることが心情世界である霊界に相通じる。食口は先天時代の蕩減的大気から脱すべきだ。後天時代は自らに条件や枷をはめて嫌々ながらの歩みをすべきではない。先天に教え込まれ訓練された資質(み言葉体質)を生かして創造に寄与できてこそ神の子女と言える。一世にしてみればほぼ人生の終盤で短い解放時代だとしても、二世は創造人生にガラス天井はない。思いっきり創造の歩みを闊歩すればいい。先回のシンポジウムの二世の証を聞きながら、多くの二世達も彼女のように創造に繋がる前進的主体的魂を備えて歩んで欲しい。教会の内輪だけで蠢いていても霊的に腐るだけだ。一世を踏み台にし、また反面教師にもして創造的歩みに寄与して欲しい。

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