原理のみ言葉を知らないからといって愛の人生を歩めないわけではない。霊や霊界の存在を理解しないからといって霊界に旅立たないわけではない。私が真の父母に出会い、み言を学ぶことができたのは、私が愛に溢れた人生を送るためでも天国に行くためでもない。為に生きるという教えそのままに、他の為に真の父母に出会い、そしてみ言葉を学んだ。では私は学んだそのままを横流しのように伝えれば為に生きるという私の使命は全うされるのだろうか。伝道とは横流しであり只の受け売りだろうか。アボジは御自身の背中を見せることで霊の生命を与えたように、伝道とは霊の生命を与えることだと思う。はたして原理のみ言葉を何人に伝えたかがそのまま霊の生命を与えたことになるのかどうかはよくよく考えるべきだ。アボジが語る、過ぎてみればすべては愛であったというこの言葉が本質をついている。過ぎてみなければ愛は苦痛以外の何物でもないということだ。父は齢九十を超えて癌の宣告を受けた。これまで病気らしい病気とは無縁だったから、父とすれば穏やかに逝くだろうという期待があったのだろう。口を開けばいつ逝くかわからないと言っていたから、それなりの覚悟はあるのだろうと思っていたが、いざ宣告を受けると痛みのせいもあるのか間近に迫った死に対して明らかに尻込みしている。「いつ逝くかは伝えられることはないしわからない、どうしたものか。」私がベッドの横で入院状況の説明を看護師から受けている間も、父はそれとは関係のないそんな言葉を吐いている。どんな人生であれ終わりはきて死を迎える。死のみならず生と死の狭間もまた誰しもが迎えざるを得ない。そしてこの狭間が死以上に曲者だ。
2024年2月25日日曜日
2024年2月17日土曜日
今日の想い 1286
アボジは子女を正しく教育することもできなかったし、またその責任を周りに押し付けるという責任転嫁であったし、本人は完成実体と言っているが家庭は悉く壊れ人類の真の父母とはなり得なかったと、少なからずそう思っている食口も存在し、そう記している先輩家庭のブログサイトも見かける。私は御父母様の、とりわけアボジの功績を現実社会の規範による判断材料でしか見ておらず、そういう兄弟達は精神的な霊的視点で捉えようとする意志がもともとないか、或いは意志を備えようとしていないかだと思っている。イエス様が聖人であることは今となっては誰もが認めているが、地上におられた当時の社会規範からすれば悉く反社であったし、目には目を歯には歯をの戒めの時代の社会に於いては、現代に比べて相当数いる処刑者の内の一人に過ぎない。磔刑にかけられたのはイエス様と両側の罪人のみならず日常茶飯事の事柄だった。イエス様の功績はその当時に於いては反社会的であり多くは認められないように、同じようにアボジの功績は今の時点では反社会的で認められないだろう。その実態を暴かれてこの世の人達と同じように認められないという兄弟達も多くいる。それは霊的に暗いままだからだ。心情という言葉、概念を理解していないと言ってもいい。この世の人達は通常その真の愛の光の波長を受け止める霊的感性、心情的感性を持ち合わせてはいない。教会に従う全ての食口がその感性を備えているとは言えないのも事実だし、少なからず信仰を盲目的に捉えて居続けている場合が多い。アボジの功績が世に知られるのは今ではなく未来だ。その頃は真の愛であるとか心情という概念が広く行き渡っているはずだ。アボジや御家庭の実態を結果として見るのではなく果実は精神的霊的なものであって、それを地上に落とし込むのは選ばれた私達の手に委ねられている。その願いを無視して実態を言いつらうのであれば、一体人生を賭してここまで来て何を学び何を相続したのだろうかと問いたくなる。
2024年2月7日水曜日
今日の想い 1285
人間の魂の活動は知情意であることは食口なら誰でも知っている。しかし知情意は並列的に捉えるものではなく、知と情の授受によって意を起こすのであり、意を起こすことが創造領域に組み込まれる。私達の何気ない行動も意ではあるが、それは私自身にしろ人類歴史上にしろ過去の創造の反復であってそれは創造の本意とは異なっている。創造と認められる領域に入ろうとすれば習慣性を超えなければならないし、そのためには今の自らの情を超えて発動する新しい情を培う必要がある。新しい情を備えようとすればそこに確実に恐れが邪魔をするだろうし、その恐れを甘受し超えなければならない。私達は心情という概念を持っている。知識に対して叡智があるように情(感情)に対して心情がある。偉人は何らかの叡智を受け止めて人類に寄与してきたが、私達は天の心情を受け止めることで人類に寄与するのであり、それでこそ神人類としての証が立つというものだ。私達の創造は地上的技術ではなく、精神的なものでありそれは霊的感性を地上に降ろすことにある。霊が見えたり聞こえたりというような物質的に捉えて貶められた霊感ではなく、心情を備えることが心情世界である霊界に相通じる。食口は先天時代の蕩減的大気から脱すべきだ。後天時代は自らに条件や枷をはめて嫌々ながらの歩みをすべきではない。先天に教え込まれ訓練された資質(み言葉体質)を生かして創造に寄与できてこそ神の子女と言える。一世にしてみればほぼ人生の終盤で短い解放時代だとしても、二世は創造人生にガラス天井はない。思いっきり創造の歩みを闊歩すればいい。先回のシンポジウムの二世の証を聞きながら、多くの二世達も彼女のように創造に繋がる前進的主体的魂を備えて歩んで欲しい。教会の内輪だけで蠢いていても霊的に腐るだけだ。一世を踏み台にし、また反面教師にもして創造的歩みに寄与して欲しい。