アボジは子女を正しく教育することもできなかったし、またその責任を周りに押し付けるという責任転嫁であったし、本人は完成実体と言っているが家庭は悉く壊れ人類の真の父母とはなり得なかったと、少なからずそう思っている食口も存在し、そう記している先輩家庭のブログサイトも見かける。私は御父母様の、とりわけアボジの功績を現実社会の規範による判断材料でしか見ておらず、そういう兄弟達は精神的な霊的視点で捉えようとする意志がもともとないか、或いは意志を備えようとしていないかだと思っている。イエス様が聖人であることは今となっては誰もが認めているが、地上におられた当時の社会規範からすれば悉く反社であったし、目には目を歯には歯をの戒めの時代の社会に於いては、現代に比べて相当数いる処刑者の内の一人に過ぎない。磔刑にかけられたのはイエス様と両側の罪人のみならず日常茶飯事の事柄だった。イエス様の功績はその当時に於いては反社会的であり多くは認められないように、同じようにアボジの功績は今の時点では反社会的で認められないだろう。その実態を暴かれてこの世の人達と同じように認められないという兄弟達も多くいる。それは霊的に暗いままだからだ。心情という言葉、概念を理解していないと言ってもいい。この世の人達は通常その真の愛の光の波長を受け止める霊的感性、心情的感性を持ち合わせてはいない。教会に従う全ての食口がその感性を備えているとは言えないのも事実だし、少なからず信仰を盲目的に捉えて居続けている場合が多い。アボジの功績が世に知られるのは今ではなく未来だ。その頃は真の愛であるとか心情という概念が広く行き渡っているはずだ。アボジや御家庭の実態を結果として見るのではなく果実は精神的霊的なものであって、それを地上に落とし込むのは選ばれた私達の手に委ねられている。その願いを無視して実態を言いつらうのであれば、一体人生を賭してここまで来て何を学び何を相続したのだろうかと問いたくなる。
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