原理のみ言葉を知らないからといって愛の人生を歩めないわけではない。霊や霊界の存在を理解しないからといって霊界に旅立たないわけではない。私が真の父母に出会い、み言を学ぶことができたのは、私が愛に溢れた人生を送るためでも天国に行くためでもない。為に生きるという教えそのままに、他の為に真の父母に出会い、そしてみ言葉を学んだ。では私は学んだそのままを横流しのように伝えれば為に生きるという私の使命は全うされるのだろうか。伝道とは横流しであり只の受け売りだろうか。アボジは御自身の背中を見せることで霊の生命を与えたように、伝道とは霊の生命を与えることだと思う。はたして原理のみ言葉を何人に伝えたかがそのまま霊の生命を与えたことになるのかどうかはよくよく考えるべきだ。アボジが語る、過ぎてみればすべては愛であったというこの言葉が本質をついている。過ぎてみなければ愛は苦痛以外の何物でもないということだ。父は齢九十を超えて癌の宣告を受けた。これまで病気らしい病気とは無縁だったから、父とすれば穏やかに逝くだろうという期待があったのだろう。口を開けばいつ逝くかわからないと言っていたから、それなりの覚悟はあるのだろうと思っていたが、いざ宣告を受けると痛みのせいもあるのか間近に迫った死に対して明らかに尻込みしている。「いつ逝くかは伝えられることはないしわからない、どうしたものか。」私がベッドの横で入院状況の説明を看護師から受けている間も、父はそれとは関係のないそんな言葉を吐いている。どんな人生であれ終わりはきて死を迎える。死のみならず生と死の狭間もまた誰しもが迎えざるを得ない。そしてこの狭間が死以上に曲者だ。
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