2024年5月28日火曜日

今日の想い 1296

教会が裁かれているのは一般的この世の倫理によってであって、真理によって裁かれているのでも神の願いから裁かれているのでもない。2000年前のイエス様が裁かれたのも当時の倫理によってであって、真理でも神の願いでもない。しかし霊的領域で真理で裁かれようとしている認識が私達にない。もちろんこの地上に未だ君臨しているのは原理でいうところの堕落天使長ルーシェル及びその配下で、神の願いの一部を受け持った反ルーシェル派が力をつけているとしても以前その地上体制は変わってはいない。だから教会はどのみち何らかの言い掛かり、すなわち一般的倫理で裁かれるのは天の使命を帯びた群れとしての宿命だし、当然その覚悟は持つべきだろう。しかし地上に於ける精神向上作用は倫理を超えるところにある。倫理の範疇に収まる行動であればそこに神霊の働きは起こらない。私達の心情主義からみると、良心がその行動の主体的動機であるかどうかが問われることになる。連霊性の後天の意味が解っている食口であれば、今の打たれる立場は摂理的状況から見て設えられて当然であり、ここでどう覚悟を差し出すかが勝敗の決め手だと理解しているはずだ。神様は必ず我々の味方だと言いながら、何らの覚悟ある行動も取らないのであれば、神の願いに立ってはいないし摂理を担う立場でもない。ある意味サタン的態度だとも言える。私達は表面上はこの世の善悪判断で裁かれているようだけれども、それを突き付けられてどう覚悟や意志を差し出すのかというところで真理で裁かれている。窮鼠猫を噛む、あるいは背水の陣という言葉は勝利した経験があれば必ず通過する過程であり、覚悟の意味はそこにある。善悪の判断はいつの世に於いても、どんな状況下でも変わらないと絶対視している食口が多いことが教会の独善性に強く影響を及ぼしている。その教条主義が真の闘いから目を背けさせ、それが私達の良心がより強く大きくなる作用を阻害している。

2024年5月23日木曜日

今日の想い 1295

 ニクソンショック以来、ドルは金とのリンクを止めて相場制となった。だからそれ以降は金の保有残高に関わらずいくらでも政治判断で輪転機を回せる、すなわち自由に金融緩和策を取ることができるようになった。アメリカはクリントン政権以来財政赤字と貿易赤字という双子の赤字を続けているが、それでも財政破綻せずにこれたのは必要に応じてドルを水増ししてきたからだ。それがリーマンショックとコロナショックでそれ以前の遠慮しいの金融緩和とは次元を異にして、激しい急勾配グラフの通貨増発となっている。ドルは既に事実上の基軸としての信認を得ていないにも関わらず、人々は長らく続いたドルによる価値判断から足場を変えることができずにいる。金の急騰はドルに価値基準を置いているからいえることであって、逆に金を基準にすれば金の急騰ではなくドル通貨の暴落だと判断する。ここのところのインフレは生活に大きく影響を及ぼしているが、物が高いのではなく日本で言えば円が安すぎるのであって、その認識があれば銀行に預けている円預金を別の資産に変えて当然だろう。そうなると途端に銀行はバンクラン(取り付け騒ぎ)で引き出し制限をかけるわけだが、しかし未だに銀行安泰であるかのようにみえるのは特に日本人が円の価値信仰が強いからだ。もしトラがほぼトラで米政権を握るとなると、先ず外国が保有している莫大な米債という借金を恐らくに目減りさせる、すなわちドル切り下げを発動させる。そして池にクジラを泳がせているような特定の金融エリート層が独り勝ちする金融経済から、米市民に経済を取り戻す実体経済に舵を取る為にドル安政策を取るはずだ。それがトランプのいうアメリカファーストだ。そんな大ナタを振り下ろせるほどトランプは度胸があるのかどうかだが、神が後押ししているかどうかは別として、歴史上に名を残す人物と同じかそれ以上の摂理的人物であることは断言できるだろう。

2024年5月20日月曜日

今日の想い 1294

断食すれば万物がどれほど恋しくなることか。断食した者でなければ万物に対する恋い慕う想いや、それこそ喉から手が出るほどの万物欲求の強さは理解できないだろう。断食をやめるとまたその想いは薄れるのだが、それでも万物を恋しく想う体験は魂にしっかり刻まれ、思考にも意志にも感情にも影響を与えるようになる。そのように断たれることで断つ対象への想いはつのり、対象を得たいがための渇きに苛まされはするが、その体験によって対象の本質を学ぶことができ正しく対象に相対することができる。すなわち対象と授受でき一体になれる。食口であれば性に対して厳しく戒めを課せられてきた。家庭を持ってからもそうで決められた相対以外の関係は当然認められない。繁殖以外で異性を求めるのは人間が霊的存在であるが故の欲求であるにも関わらず、そこに縛りをかけて遠ざければ遠ざけるほど渇きは増すばかりだ。どれほどみ言葉に忠実に生きるとしても、その渇きから逃れるのは至難の行で不可能に近い。もちろん大方の食口は決められた夫婦も家族も壊すことなく生涯を終えるのだが、結果としてその渇きが癒えるかどうかは関係なく、そんな食口は稀だろう。でも私は人間としてそれで当然だと思う。その意味では一生、性のみならず何らかの渇きを味わいながら生涯を送っていくものだ。人間は欲望の存在であり欲望とは渇きを癒したいという願いに他ならないからだ。私達はアボジが語られた絶対に対して、その言葉を知っているのみで何らの意味も本質にも近づいていない。性には甘い快楽の後に深い罪悪感という罠が待っている。それは夫婦間ですら同じで、倫理的に良しとされ罪悪感は最小に留まるものの虚しさは覚えるし、交われば交わるほど渇きは癒されるどころか更に渇きは激しくなる。それは例えていうと渇きを海水で癒すような感覚だ。真水の性ではなく海水の性であるのは絶対性に至っていない相対的性の反復に留まり、そこに何らの創造も為されていないからだ。

2024年5月5日日曜日

今日の想い 1293

 人間の心の中に相反するものがあることは否めない。それは良心的意志と邪心的意志であったり、聖なる想いと邪な想いであったり、善なる思考と悪なる思考であったり、またそれぞれの混合状態だったりと様々なのだが、相反するものが混在している私を見ざるをえない。原理はこの矛盾性を解決するために罪を認め蕩減を払い御父母様に繋がって、、ということになるのだが、人間は矛盾性どころか方向性が様々でそれぞれが相反する立場を内包していて、それこそが人間だと思える。聖賢聖者と呼ばれる人間が、たとえばイエス様が完璧な聖なる御方であって闘いのない機械のような内面であれば、どうして罪人に対することができ理解することができ更に彼等を救うことができるだろうか。相反するものが混在していても、だから矛盾していると果たして言えるかどうか。それぞれの立場を納得させ調和させるという或る中心性が内面に立つなら、個全体として矛盾しているとは言えないだろう。実は人間の矛盾とは相反する方向の内包ではなく、個の主体的精神にそれらが統一されているかどうかの問題ではないだろうか。矛盾の内包の他に今一つは罪と堕落性の問題がある。私という人間が他の人間を罪人として裁くことも判断することもできないのは、地上にいるどんな人間存在も神霊によるプロセスを経てこの地上に生まれ出たのであり、そしてどんな風に見えるとしても何某かの摂理的要件を踏まえて、すなわち神霊の一つの願いを受け取って生きて闘っているからだ。食口であれば同性愛や不倫、買売春は完全否定だろうし堕落者の烙印を押してサタン視するはずだ。しかし彼等も同じ人間として、すなわち知ってか知らずか摂理的要件を担った立場で生を送っている。食口は傲慢にもそれを否定する姿勢は持つべきではないだろう。タマルの不倫を条件とした血統圏で、さらにイエス様はマリアの不倫で生まれたのであり、娼婦であったマグダラのマリアはイエス様を内的に支える重要人物だった。私達が敬意を払うのは戒めを守っているかどうかではなく、その人の情が天に取られるものかどうかだ。私達は行いそのものに対して罪だ堕落性だと決めつけているが、その行動の背後を見ようとする心情主義でなければならない。