2024年5月5日日曜日

今日の想い 1293

 人間の心の中に相反するものがあることは否めない。それは良心的意志と邪心的意志であったり、聖なる想いと邪な想いであったり、善なる思考と悪なる思考であったり、またそれぞれの混合状態だったりと様々なのだが、相反するものが混在している私を見ざるをえない。原理はこの矛盾性を解決するために罪を認め蕩減を払い御父母様に繋がって、、ということになるのだが、人間は矛盾性どころか方向性が様々でそれぞれが相反する立場を内包していて、それこそが人間だと思える。聖賢聖者と呼ばれる人間が、たとえばイエス様が完璧な聖なる御方であって闘いのない機械のような内面であれば、どうして罪人に対することができ理解することができ更に彼等を救うことができるだろうか。相反するものが混在していても、だから矛盾していると果たして言えるかどうか。それぞれの立場を納得させ調和させるという或る中心性が内面に立つなら、個全体として矛盾しているとは言えないだろう。実は人間の矛盾とは相反する方向の内包ではなく、個の主体的精神にそれらが統一されているかどうかの問題ではないだろうか。矛盾の内包の他に今一つは罪と堕落性の問題がある。私という人間が他の人間を罪人として裁くことも判断することもできないのは、地上にいるどんな人間存在も神霊によるプロセスを経てこの地上に生まれ出たのであり、そしてどんな風に見えるとしても何某かの摂理的要件を踏まえて、すなわち神霊の一つの願いを受け取って生きて闘っているからだ。食口であれば同性愛や不倫、買売春は完全否定だろうし堕落者の烙印を押してサタン視するはずだ。しかし彼等も同じ人間として、すなわち知ってか知らずか摂理的要件を担った立場で生を送っている。食口は傲慢にもそれを否定する姿勢は持つべきではないだろう。タマルの不倫を条件とした血統圏で、さらにイエス様はマリアの不倫で生まれたのであり、娼婦であったマグダラのマリアはイエス様を内的に支える重要人物だった。私達が敬意を払うのは戒めを守っているかどうかではなく、その人の情が天に取られるものかどうかだ。私達は行いそのものに対して罪だ堕落性だと決めつけているが、その行動の背後を見ようとする心情主義でなければならない。

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