教会が裁かれているのは一般的この世の倫理によってであって、真理によって裁かれているのでも神の願いから裁かれているのでもない。2000年前のイエス様が裁かれたのも当時の倫理によってであって、真理でも神の願いでもない。しかし霊的領域で真理で裁かれようとしている認識が私達にない。もちろんこの地上に未だ君臨しているのは原理でいうところの堕落天使長ルーシェル及びその配下で、神の願いの一部を受け持った反ルーシェル派が力をつけているとしても以前その地上体制は変わってはいない。だから教会はどのみち何らかの言い掛かり、すなわち一般的倫理で裁かれるのは天の使命を帯びた群れとしての宿命だし、当然その覚悟は持つべきだろう。しかし地上に於ける精神向上作用は倫理を超えるところにある。倫理の範疇に収まる行動であればそこに神霊の働きは起こらない。私達の心情主義からみると、良心がその行動の主体的動機であるかどうかが問われることになる。連霊性の後天の意味が解っている食口であれば、今の打たれる立場は摂理的状況から見て設えられて当然であり、ここでどう覚悟を差し出すかが勝敗の決め手だと理解しているはずだ。神様は必ず我々の味方だと言いながら、何らの覚悟ある行動も取らないのであれば、神の願いに立ってはいないし摂理を担う立場でもない。ある意味サタン的態度だとも言える。私達は表面上はこの世の善悪判断で裁かれているようだけれども、それを突き付けられてどう覚悟や意志を差し出すのかというところで真理で裁かれている。窮鼠猫を噛む、あるいは背水の陣という言葉は勝利した経験があれば必ず通過する過程であり、覚悟の意味はそこにある。善悪の判断はいつの世に於いても、どんな状況下でも変わらないと絶対視している食口が多いことが教会の独善性に強く影響を及ぼしている。その教条主義が真の闘いから目を背けさせ、それが私達の良心がより強く大きくなる作用を阻害している。
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