久しぶりのアメリカだしNYだし、ということで時間が取れる今だと思って周囲を散策してみた。外気は0度で数日前のマイナス6度とか7度よりは遥かにましだ。それでも開き扉を開けると一気に寒風が身を包んで身構えさせる。この辺りは結構店も並んでいて、マンハッタンと同じような、しかし縮小されている碁盤の目になっていて、その大通りには人通りも多い。いろんな人種がいて体形も恰好も様々で、私のような小太りで服装だって随分貧弱だが全く目立たない。日本ではすれ違う人がどう思っているのか心配して顔を落とし気味に歩いているが、こっちは一向に気にならない。視線が合っても軽く笑顔でやり過ごせる。しかし歩いてみると私がこの辺りを行き来した80年代は倉庫街でもあって、マンハッタンの高い家賃が払えない人々が住んでいるような街で、気の利いたレストランどころか何もなかったが、今は建物自体は変わってないにしても軒並み様々な店が入っている。コーヒーショップに立ち寄って一杯注文してみた。10ドルも取られたから随分高いなとは思ったがインフレのせいだと気にしなかった。しかしピックアップ場所に行ってみたら同じものが二つある。聞いてみると確かに二つ注文したと言い張るので、これ以上英語では応戦できないと思い折れて二つ手にした。アメリカで30年過ごそうが40年過ごそうがこの程度かと、自分への憤りと共に二杯を立て続けに腹に収めて早々に店を後にした。先日息子と孫とでマンハッタンにあるスクールまで行って、孫の午前中のスケジュールが終わるまでその辺で時間を潰したが、最後にラーメン店で早い昼食を取った。一杯が21ドルだったからタックス入れると円換算だと?と言うと、そんな計算してたら何も食べられないし生活できないと一蹴された。アメリカは物価が高い。マンハッタンは更に高い。でもアメリカはそれなりに賃金は高いしインフレに合わせて増えてるはずだから日本の物価高の感覚とは明らかに違う。日本の物価高はこたえる。デフレ期間が長すぎたために更にこたえる。少ない年金はドルでもらってるから何とか今暮らしていけるが、信用が落ちたドルが急落して円高になるとどこを切り詰めようかと、アメリカにいるのに日本での生活を気にしている時点で、この年になっても小さい自分だなとため息をついた。散策したとは言い難い、速足で2,3ブロックを回った感想を述べると、寒いせいもあるのかも知れないが明るい顔は見られなかった。新年だし快晴にもかかわらず人々の顔色は暗い。
2025年1月15日水曜日
2025年1月14日火曜日
今日の想い 1353
私は神の存在を否定しない。創造主としての神を否定するなら全ての存在を否定せざるを得ないし、神がいるのかいないのか思考する私自身すら否定せざるを得ない。しかし存在より私とどういう関係性があるのかが大切なのであって、それによっては神はいると信じていても事実上存在しない態度と言える場合がある。原理を受け止め信仰をもったとしても、即それで神が実感できるわけではない。それはちょうど新生児の子供が成長しながら親との関係性を築いていくように、内的な愛の神との関係性を築いていって親なる神様といえるようになる。もし産んだだけの親であるなら子はこういうはずだ。私は親の存在を否定しない。しかし関係性はないし親と認めない。3歳になる孫娘は何でも聞いてくれていた親が産まれたばかりの次女に突然持っていかれ、今までの親を失ったかのような減少感で機嫌をそこねる。赤ちゃん返りのように甘え言葉でまとい付き、それでも相手してくれないと駄々をごね大泣きする。親としては娘の為と言い聞かせるけれども,それに応えて直ぐにでも成長してくれるわけではない。この新しい環境圏を受け入れる受容にはそれなりの期間がかかるだろう。信仰歴の年月を経ながらステージ毎に与えられた事情圏で成長しながら次第に親なる神として認識するのであって、それは一生かかるのか、はたまた地上生を何度も繰り返すのか、それぞれだろう。神の存在を認めるから神との関係性が築かれるのではなく、愛をどれほど育んだかで神との関係性は築かれる。神様は私が愛を育む七転八倒の中で神様ももがきながら共に生きておられる。そうは思うけれども、それが神様なのかそれとも私を導く霊なのかと問われればまだ答えられない。すくなくとも私の良心が立つ意味はそれなりのステージを隔てて、良心を中心とし良心とのやり取りで神様の願いが何なのかは理解できる。しかし神様と一問一答できるほどに私は結実しているとは到底言えない。直接的関係性を未だ築いていない私と神様の共通感情は、楽しいでも苦しいでもなく寂しいであって、もっとも神様を感じるとすれば寂しさを味わう時だ。
2025年1月13日月曜日
今日の想い 1352
諸事情があってNYにいる。今季最大の寒気なのだろうか外は冷凍庫状態だ。その上に強風が吹きまくっていて顔面を冷気で直撃されれば感覚は麻痺して外になど出られたものではない。NYの仮の宿は大人から子供から皆が咳込んでいて、必要もない潜伏期間調査を生身で受けているようなものだ。インフルエンザワクチンを打ってはいるが、果たして功をなすかどうか。息子夫婦はブルックリンブリッジを渡ったクイーンズ地区に住んでいて、第二子が生まれるというのでその予定日に合わせて渡米スケジュールを取った。が、案の定二回目のお産は予定日より早くて出産には間に合わなかった。最初の子を見る必要があるということで行ったのだが、間に合わず、後は男手で何ができるでもないから早々に孫の顔でも見て帰ろうと思った。でも着いてみると息子は咳が昂じて肺炎で苦しみ、嫁はお産前の気管支炎に加え腰骨が軋むとか言って子を抱けるどころか歩くのもやっとで、上の子はこれまた咳がひどくママがベイビーにばかり手をかけるものだから振り向かせようと駄々をこね大泣きしている。そんな状況で、もう帰るからとは言えなかった。ここに居たら間違いなく風邪なのか何なのかうつされる。感染したまま帰国もできないがそんな心配は後回しにせざるを得なかった。ひたすら回復を祈り、時が過ぎれば何とかなると言い聞かせながら男手でもできることをやっている。オムツの変えやミルクやり、上の子の遊び相手にゴミ出しや飯の準備といった家事全般。一週間が過ぎて確かに平静を取り戻しつつあるかといえば微妙だが、それでも新しい孫を抱いて歓ぶ余裕もでてきた。孫は理屈なしにかわいい。かわいいからなのか何なのか抱いていると訳のわからない涙が溢れてきて、心を洗い流せるようなこの感覚を覚えただけでも来て良かったと思えた。息子は小さいころ大病を患って、普通の食事もままならなかったのでそれ以来偏食せざるを得なかった。そんな理由もあって決して丈夫な方ではない。でも子供が力の源であって子供の為を思えばがんばれる。敢えて本人から聞かずともそのことだけは感じられて、親としてはそれで大満足だし何があっても問題ないだろうと思えた。
2025年1月1日水曜日
今日の想い 1351
騙される者はどこまでも騙され続ける。騙されていると本人が認識するまで騙される。騙す当人からすれば、騙さなければ他の誰かが現れて騙すのであって、どうせ騙されるならちゃんと金の使い道を知っている私が集めて当然だ。アボジがそう思っていたかどうかは別として、もし教会に騙されたと思っているのなら、教会を恨むのはお門違いで騙されやすい自分自身を先ず恨むべきだろう。アボジは日本食口が生活が破綻するまで献金し続けるとは思ってもいなかったかもしれないし、家庭問題が出て家計が破綻するほどに出金を主管できないとはどういうことか、という具合に頸を傾げたかもしれない。同じ成約の信仰を持っていても貧しい者もいれば一財産築く者だっている。財産を築く者は当然騙されることなどない。元ある財産収入を端から献金すれば当然貧しくなるのであって、それだけならまだしも国や地方のお世話になる者もいる。貧しくなって恨みを抱き、国や地方のお世話になって誇りを失う。日本食口の多くはそこまでは落ち込まないにしても、現実として生活苦に喘いでいる者は多い。でもそうやってお金の苦労をして初めてお金の意味や有難さを知るのであり、万物主管の本質さえ理解すればお金は集まり一財産築くのに数年もかからない。多くの食口は教会に来なかったとしても騙されたか財産とは縁遠い者が多いはずだ。日本に目を向けると、国民は何もない食べるものすらない位置に堕とされて万物の有難さを知った。それ故に働きに働いてGDP世界一に追い付くまでのし上がった。しかし生まれながらにして飽食でありモノが溢れていると万物の有難さは学ばない。お金の価値、万物の価値がわからなければ当然のこと稼ぐために心魂を注ごうとは思わない。この論理からするなら二世は生まれながらにして貧しく、少なくとも普通の日本の若者よりはお金の価値を理解している。一世は貧乏を受け入れても二世は求める故にしっかり稼ぐし、思い込みで全て献金することもしないはずだ。そんな二世は世界に羽ばたくべきだ。これから日本は確実に右肩下がりの貧しい国になるのであり、貧しい国ではビジネスも難しいし財産構築も難しい。世界的通貨バブルが弾ける2025年、日本はどう舵を取るのだろうか。そして二世達はどう生き延びるのだろうか。混沌と波乱の中でこそ真の霊を戴いた者は水を得た魚になる。
年跨ぎの想い 2024~2025(2)
過ぎてみれば全ては愛であった。アボジは有難くも私達にこの言葉を残してくださった。苦労の歩みが苦労した恨みとして残るのではなく、苦労は愛に昇華される。祝福として新しい霊を戴いた私達は先天を超えて後天時代を迎えている今、死を超えてやっと苦労が昇華されるのでもなく、長い時間を経て苦労の意味がやっとわかるというのでもなく、新しい霊の自分が立つようになれば瞬時にその意味が解り昇華される、そんな時代が後天開闢時代だ。私達はどんな苦労も昇華させることができる。勿論苦しいのは苦しいし、悲しいのは当然悲しい。地上で生きるとはそういうことだが、その意味を教えられ愛に昇華させることができるのが祝福家庭だ。甘受するという言葉を私達は持っている。私に起こる嫌う事柄を受け取って内面に起こりうる様々な感情を甘受する。兎に角先ず甘受する。この甘受するという感性を学ばなければとても愛に昇華させることなどできない。魂の苦い食材を味わいながらでしか新しい私は堕落の私の陰に隠れたままで形を現すこともないし成長させることもできない。それでは今までの苦労は流されて終わりなのかというと、霊に時間は関係ない。昔の苦労の昇華は今でもできるしできないとするならどうせ霊界に行くのだし全ての苦労はその時清算され、愛すなわち霊界では霊の環境圏や財産として天に宝を積みあげる。だから今の苦労は今しっかりしなければならない。私達は天の加護の中にあるから時が来れば明らかにされ報われると楽天的に構えている場合ではない。迫害の中にあるなら迫害されて受ける苦労や恨みや怒り悲しみの感情をしっかり受けるべきだし、他人事のように能天気に微笑んでいてそれが天の願いだと思っているなら大間違いだ。成約の信仰は激しい喜怒哀楽であり、地上の安らぎからは最も遠いのが本物の信仰だ。