過ぎてみれば全ては愛であった。アボジは有難くも私達にこの言葉を残してくださった。苦労の歩みが苦労した恨みとして残るのではなく、苦労は愛に昇華される。祝福として新しい霊を戴いた私達は先天を超えて後天時代を迎えている今、死を超えてやっと苦労が昇華されるのでもなく、長い時間を経て苦労の意味がやっとわかるというのでもなく、新しい霊の自分が立つようになれば瞬時にその意味が解り昇華される、そんな時代が後天開闢時代だ。私達はどんな苦労も昇華させることができる。勿論苦しいのは苦しいし、悲しいのは当然悲しい。地上で生きるとはそういうことだが、その意味を教えられ愛に昇華させることができるのが祝福家庭だ。甘受するという言葉を私達は持っている。私に起こる嫌う事柄を受け取って内面に起こりうる様々な感情を甘受する。兎に角先ず甘受する。この甘受するという感性を学ばなければとても愛に昇華させることなどできない。魂の苦い食材を味わいながらでしか新しい私は堕落の私の陰に隠れたままで形を現すこともないし成長させることもできない。それでは今までの苦労は流されて終わりなのかというと、霊に時間は関係ない。昔の苦労の昇華は今でもできるしできないとするならどうせ霊界に行くのだし全ての苦労はその時清算され、愛すなわち霊界では霊の環境圏や財産として天に宝を積みあげる。だから今の苦労は今しっかりしなければならない。私達は天の加護の中にあるから時が来れば明らかにされ報われると楽天的に構えている場合ではない。迫害の中にあるなら迫害されて受ける苦労や恨みや怒り悲しみの感情をしっかり受けるべきだし、他人事のように能天気に微笑んでいてそれが天の願いだと思っているならお門違いだ。成約の信仰は激しい喜怒哀楽であり、地上の安らぎからは最も遠いのが本物の信仰だ。
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