2025年1月14日火曜日

今日の想い 1353

 私は神の存在を否定しない。創造主としての神を否定するなら全ての存在を否定せざるを得ないし、神がいるのかいないのか思考する私自身すら否定せざるを得ない。しかし存在より私とどういう関係性があるのかが大切なのであって、それによっては神はいると信じていても事実上存在しない態度と言える場合がある。原理を受け止め信仰をもったとしても、即それで神が実感できるわけではない。それはちょうど新生児の子供が成長しながら親との関係性を築いていくように、内的な愛の神との関係性を築いていって親なる神様といえるようになる。もし産んだだけの親であるなら子はこういうはずだ。私は親の存在を否定しない。しかし関係性はないし親と認めない。3歳になる孫娘は何でも聞いてくれていた親が産まれたばかりの次女に突然持っていかれ、今までの親を失ったかのような減少感で機嫌をそこねる。赤ちゃん返りのように甘え言葉でまとい付き、それでも相手してくれないと駄々をごね大泣きする。親としては娘の為と言い聞かせるけれども,それに応えて直ぐにでも成長してくれるわけではない。この新しい環境圏を受け入れる受容にはそれなりの期間がかかるだろう。信仰歴の年月を経ながらステージ毎に与えられた事情圏で成長しながら次第に親なる神として認識するのであって、それは一生かかるのか、はたまた地上生を何度も繰り返すのか、それぞれだろう。神の存在を認めるから神との関係性が築かれるのではなく、愛をどれほど育んだかで神との関係性は築かれる。神様は私が愛を育む七転八倒の中で神様ももがきながら共に生きておられる。そうは思うけれども、それが神様なのかそれとも私を導く霊なのかと問われればまだ答えられない。すくなくとも私の良心が立つ意味はそれなりのステージを隔てて、良心を中心とし良心とのやり取りで神様の願いが何なのかは理解できる。しかし神様と一問一答できるほどに私は結実しているとは到底言えない。直接的関係性を未だ築いていない私と神様の共通感情は、楽しいでも苦しいでもなく寂しいであって、もっとも神様を感じるとすれば寂しさを味わう時だ。

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