2007年10月24日水曜日
本質的比較
二十数年間レストランに携わりながら、アメリカに於ける寿司関係の店は爆発的に増えてきた。しかし我々の店は減ることはあっても増えることは無かった。無闇に上や下に対して憤慨したり悔いたりする前にどうしてそうなったのか霊的感性も動員して考えてみる必要がある。我々の店と外の店の根本的違いは何か。違いははっきりしている。出発点の違いである。外の店は自分の願いが出発点であるのに対して、我々は天の願いが出発点である。天の願いであればより次元の高い動機ではあるが、しかし悲しいかな天の願いに対しての納得が自分の中に無い。大切であるというおぼろげな認識はあるがあまりにも捕らえどころの無い感覚なのだ。信仰という紙を一枚一枚重ねる程に少しずつ神様に対する認識を得ようとしてきたが突きつけられる現実の前には霧同然のような感覚なのだ。従って天の願いが出発点ではあるがその認識がないため、ただ単に出発点が自分の願いではない、というに留まっている。普通人間は自分というものに固執する。自分を守り自分の願いや夢のために人生を駆け巡る。自分の願いであるから持てるエネルギーの総てを投入する。自分の店、即ち自分そのものであるからその中に発想や知恵、思い入れ、責任意識という三様のエネルギーを最大限投入する。要するに自分の知情意を与えつくす。より与えた者がより受ける者である。原理はそうである。比較してみれば我々には上からの指示を受け止めることでアップアップの状態だから発想や知恵は貧しく、いつどこに飛ばされるかも知れないからその地やその店に対する思い入れも無く、責任を取るという意味すら解っていない。そういった内容を一まとめにすれば信仰が無いという言葉で片付けられる。その違いを踏まえて何が我々に必要なのか。ここに大きく分けて二つの選択が用意されている。ひとつは出発点を自分の願いに軌道修正する。ようするに今ある店にしろこれから開ける店にしろ自分のものなのだという認識に転向させる。もちろん店も儲けも先ず自分の所有である。そこからそれぞれの良心基準、信仰基準に合わせた形でドーネーションする。そして今ひとつの選択は天の願い、み旨が何であるかを個人に於いて組織に於いて徹底して教育する。魂の中からみ旨を最優先させたいという所まで陥れる。責任者としては後者を取ると思う。日本に於ける犠牲精神を例に徹底して押し付けにかかる。おそらくその選択をせざるを得ないだろうし鬼になることがみ旨と認識して発破をかける。しかしこれ程の分別に耐える者がいるとは思えない。ビジネスビジネスと口を酸っぱくして言うがそれを突き詰めると最初の選択にならざるを得ない。この矛盾に気がついたものがいない。しかし私は今ひとつの選択が出てくることを期待している。即ち自分の願い=天の願いという次元が現れ見えてくる。自分はこれを妄想とは思っていない。遠からずその時がくることを霊的に確信している。だから自分は今を耐えることができる。今できることを精一杯やりたいしそれが本当の喜びだという実感が涌こうとしている。
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