2015年6月19日金曜日

使命感

復帰された当時は燃やすべきだった使命感だが、今となってはそれは実に曲者だ。食口それぞれに復帰された内的過程は様々で、ある者は知的に、またある者は情的に引っ張られて摂理の願いに応える存在になっていく訳だけれども、全体の一細胞として前線で戦う為には知的情的よりは意の部分を突出させなければならない。それが使命感だ。み言葉を深く理解していようがいまいが、愛があろうがなかろうが、そんなことよりは使命感だ。切羽詰まった摂理の要求に応えるために、行動することの方が何よりも最優先させられた。やれと言われたことに即座に反応する姿勢は、一世達の多くが培われた在り様だったけれども、行動そのものに理想への展望が備わっていた訳でもないし愛が備わっていた訳でもない。使命への熱い想いだけを燃やして力となり摂理を進めていった。しかし今要求されているのは環境創造であり氏族復帰だ。それは使命感だけで達成できるものではなく、み言葉理想への深い理解や真の愛に繋がる愛の人格が備わることも要求される。だが具体的行動に移そうとしても私の中に理想も無ければ愛もない。何ら影響を及ぼせない国や世界を前にして、氏族を前にして、自分の内容の無さに愕然とするところからの出発だ。氏族メシヤというのは氏族を左右できる権威だ。氏族的メシヤ権だ。氏族メシヤの私が氏族を霊的に生かすか殺すかの権限を持っているのであり、氏族の位置を決める権限も持っている。権威を及ぼす上での自由があるが、それは氏族救援に対する責任があっての自由だ。親戚を復帰するに於いて、路傍伝道と同じようにみ言葉を伝えて伝道するものだと思っているけれども、遠ざかって音信も不通の者の薦めに誰も応じる者など当然いない。先ず自分を証してくれるカイン圏を救って、洗礼ヨハネとしての証人を用意しなければ、適当にあしらわれて終わりだろう。それでも氏族の生命の種は氏族メシヤである私が持っているのだから、使命感でそのまま押し切るというのも手かも知れないが、それだと一人一人に当たるということなので同じように働きかける者が何代も必要になるだろう。復帰への道筋に対する自由は与えられているのだから、親戚縁者一同を集めておいて氏族メシヤ宣言をすれば取り敢えず霊界が一人一人責任を持つ基台ができる。環故郷をするのに証してくれる洗礼ヨハネもいなければ氏族を盛り上げる土産もなく、身一つで帰ってこられても厄介者になるのがオチだ。身一つどころか借金まで背負っているという笑えない現実があるのに、それでも帰る食口に対しては寒心してしまう。それは余程信仰があるか、はたまたよっぽどの馬鹿かどちらかだ。ひとつには使命感も持っていることが御父様と一つになることだと思い込んでいることと、指示された言葉通りに外的に行動することが絶対信仰だと思い込んでいる。先天時代はそれを善しとした時代だったかも知れないが、後天時代はそうはいかない。使命感だけでは決して残せない結果が要求される。

2015年6月16日火曜日

今日の想い 857

霊と魂を混同していることについてはここでも何度も触れているが、訓読会で御父様がその注意を促したのは混同し易いからという御話ではなく、現に混同しているから注意された。人間は霊と肉の存在であるけれども、それは横的な関係ではなく縦的な関係として一体であり、霊と肉を分けて見ることはしない。普通人間に対しての存在認識は霊だけを見ているのでもなく肉だけを見ているのでもなく、霊肉一体圏で培われている心魂を見ている。現代の人間は霊的無知で霊的感性が備わっていないので、御父様が霊的な御話をされても魂の話として捉えてしまう。人間の堕落には霊の堕落と肉の堕落があるが、ルーシェルとエバの間の霊的堕落の話も心魂の堕落と捉えてしまう。私達が肉の堕落を犯さないまでも既に堕落人間であるのは、心魂様相に堕落性が見られることから認識できるのであり、しかしそれは結果であって原因は認識できない霊にある。霊的無知であるということを忘れて、さも霊的にわかっているように、重生して産んで戴いた父母をこの口が否定するなら、私の全体がこの口を否定するだろう。自分は祝福を受けて重生しているという恐ろしいほどの事実をわかっていない。私の全体が口を否定すれば唖になる。確かに食口の現実は御母様に従っていくのか、或いは袂が分かれた御子女様につくのか、はたまた信仰を捨てるのかという判断を迫られているところまで来ているように見受けられるが、霊的無知なのに霊的な重要要件に対して判断も何もあったものではない。自分の自由判断で従っているように思っているのだろうが、実はそう判断させる背後の霊界があり、判断したのは結果であり判断に至らせる原因は自分の相対圏にある霊界にある。そうなると彼等を説得すること自体何の意味があるのかということにもなるが、その通りで説得する必要はない。ただ、彼等は間違っているということを私の中ではっきりさせておき、彼等にもそれを告げれば、説得する必要も原理的に説明する必要もない。彼等は相対圏にある霊界の指示に従っているから彼等のスタンスを取っている。それはある意味仕方のないことだ。アダムが失敗してアベルとカインに分立せざるを得なかったように、今までの摂理路程で願いに応えられなかったが故に教会も失敗した体制そのままを継承すれば善悪混同になってしまう。一度アベルカインに分けられて新たな一体圏を模索するしかないからこうなっている。はっきり言えることは、彼等は未だわからない霊的見地に立つことを捨てて、すなわち真の父母の勝利圏への信仰を捨てて、現段階で見通せる心魂のステージを最上階としてその位置から眺めて判断を下してしまった。御母様は失敗したと言うなら、仮にも食口の端くれで御父母様と一つになるべく共に歩んできたその責任を感じて、勝利的御母様に立てて差し上げる為にも御母様に背を向けるべきではないだろう。彼等は霊と魂を混同している。

2015年6月7日日曜日

今日の想い 856

おそらく私だけではない、全ての食口が常に意識させられるであろう活動や営みの言葉として、絶対信仰絶対愛絶対服従がある。訓読をミスっても、教会から少し遠のいても、どういう状況であっても想起させられ意識せざるを得ないのが絶対信仰絶対愛絶対服従だ。想起させられると共に、人間が知情意の活動を為す魂の存在であるのと比べ、真の父母から発生した天の血統人間は絶対信仰絶対愛絶対服従の活動を為す天の根を持つ魂の存在であると認識できる。私は本当に生まれ変わって真の父母に繋がっているという実感は、絶対信仰絶対愛絶対服従と共にある。祝福を受けた者達が付いて行けずに離れようとも、それでも御父母様の存在が内面から消え失せないのは、御父母様の情的面に相対している絶対愛という魂の活動として、真の父母の根に繋がれて生きて働いているからだ。ということは、食口は離れようとしても本当は離れられない。通常の知情意に代わる新しい知情意の魂の在り様が、繋がれた真の愛の根によって少なからず備えられてしまっている。それが新しい知としての絶対信仰であり、新しい情としての絶対愛であり、新しい意としての絶対服従だ。この新しい知情意によって、生まれ変わった他体自覚の自分を認識する。その認識は明らかに堕落の血統とは異なっている。人間の知の活動は時代と共に変遷してきた。しかし今の科学一辺倒や論理思考の知の在り様は、人類歴史の僅かの一時期でしかない。現代の知の在り様こそが最も優れていると信じて疑わないから霊的には更に不通になり、霊的無知なる存在として一層個体化個別化して自体自覚の枷から抜け出られないようになる。悪魔アフリマンは科学的論理的知の在り様に拍車をかけることで人類を神から遠ざけようとしている。食口ですらアフリマンの計略である知の誘惑に乗せられている。絶対信仰で見通すべきものをこの世の知でもって否定的に捉えようとしている。御子女様に対しても、御母様に対してもそうであり、そうなるとそのうち御父様に対してまでも、復帰の過程の事実が明るみにされてしまうと道義的知の剣の鋭さで切っていくようになる。人間の知の在り様が絶対信仰によって変えられていく。人間の情の在り様が絶対愛によって変えられ、意の在り様が絶対服従によって変えられていく。御父様と一体圏にあられた御母様を否定する者は絶対信仰を蔑ろにする者であり、祝福の血統も所詮堕落の血統から逃れられないことを肯定せざるを得ず、霊的血統を否定して肉体的血統を至上としてしまう。御母様が地上におられるにも拘わらず御子女様にのみ繋がろうとするのは、本人が気付く気付かないに拘わらずそう言うことだ。疑問があるなら尋ね続けるべきだ。

2015年6月5日金曜日

今日の想い 855

天変地異にしろ何にしろ、外的な特別な力を示す神様を見たい訳ではないだろう。或いはこの耳に届く何らかの神様の言葉や調べを受け取りたい訳でもないだろう。たとえ見たとしても、たとえ聞いたとしても、それで私が神様を再認識して変わり、私と神様との関係性が深くなるとは思えない。ただ、証を見せてくれないのなら信じない、信じてやらないというあざとさが私の中にあって、その堕落性を満足させるだけのことだ。では見えない神様を、聞こえない神様を、どのように求めていけば親なる神様との出会いが訪れるのだろうか。わからないけれども信じて歩むという信仰の次元を越えて、神様の想い(心情)を直に受け取れる中心、核に触れる次元にどうしたら入れるのだろうか。御父様は霊界に行ってみれば全てがわかると言われたけれども、もし死んで肉体を脱がなければその次元には入れないというなら、私は一生肉の枷をはめられたまま地上生活を送らなければならない。罪に縛られた肉体のままで絶対信仰を模索しながら内的に患い続けなければならない。私にとって御父様が語られたみ言葉に論理性があるか、御母様が御父様の指示に従って歩んでおられるかという側面など大した関心は抱かせない。論理性がなければ信じることができない、指示から外れていれば信じることができないというような問題は私の中には無い。しかし多くの食口が直視していない大問題は、私達の中に燃えるもの、熱いものが失われているということだ。そこを直視せずに、誰が正しいのか、誰が間違っているのかという判断に躍起になって、燃える神霊が遠ざかっているという大問題から目を逸らしたままだ。確かに復帰された頃の教会には神霊の燃えるもの熱いものが備わっていた。「御父様!」と口にすればそれだけで神霊の燃える感覚を受け取れた。その当初の満たされた感覚を取り戻そうと、覚めた論理にどれだけ傾注してもみ旨は進まないと知っておられる御母様は、燃えていたあの初代教会の神霊の火を先ず再び燃え上がらそうと呼びかけられたのだろう。しかし私達は御母様が期待されるほど純粋ではなかった。願いに素直になれない自分を正当化するありとあらゆる言い訳を既に用意してしまっている。本当の路程はその自分との闘いなのだが、結果を残せない形骸化した路程が常習化し、それでも主体に対する対象であるべき自分の存在を取り繕おうとすれば言い訳を用意するしかない。アダムがエバに責任転嫁して言い訳したように、エバがルーシェルに責任転嫁して言い訳したように、私もできないやれないあらゆる言い訳を付着させたまま生活に没頭している。そうなると言い訳に支えられていた不信仰、不従順も、常習化し当然の事のように生活化してしまう。この世の人々の不倫な行動も、最初は罪意識に負債を抱えるけれども、そのうちに慣れてしまって当然の事となってしまうのと同じだ。私には御父様が指示された守るべきものがある。それは訓読であり、安侍日であり、また名節を守って流されないこともそうだろう。いつの間にか守るべきものが蔑ろにされてはいないか、適当にされてはいないか、もう一度意識的に立て直さなければ、とても90度の垂直へと向かう私を用意することはできない。向かう度数が90度でなければ、天の父母様ではなく何か別の存在を求めようとしている。