2015年6月5日金曜日

今日の想い 855

天変地異にしろ何にしろ、外的な特別な力を示す神様を見たい訳ではないだろう。或いはこの耳に届く何らかの神様の言葉や調べを受け取りたい訳でもないだろう。たとえ見たとしても、たとえ聞いたとしても、それで私が神様を再認識して変わり、私と神様との関係性が深くなるとは思えない。ただ、証を見せてくれないのなら信じない、信じてやらないというあざとさが私の中にあって、その堕落性を満足させるだけのことだ。では見えない神様を、聞こえない神様を、どのように求めていけば親なる神様との出会いが訪れるのだろうか。わからないけれども信じて歩むという信仰の次元を越えて、神様の想い(心情)を直に受け取れる中心、核に触れる次元にどうしたら入れるのだろうか。御父様は霊界に行ってみれば全てがわかると言われたけれども、もし死んで肉体を脱がなければその次元には入れないというなら、私は一生肉の枷をはめられたまま地上生活を送らなければならない。罪に縛られた肉体のままで絶対信仰を模索しながら内的に患い続けなければならない。私にとって御父様が語られたみ言葉に論理性があるか、御母様が御父様の指示に従って歩んでおられるかという側面など大した関心は抱かせない。論理性がなければ信じることができない、指示から外れていれば信じることができないというような問題は私の中には無い。しかし多くの食口が直視していない大問題は、私達の中に燃えるもの、熱いものが失われているということだ。そこを直視せずに、誰が正しいのか、誰が間違っているのかという判断に躍起になって、燃える神霊が遠ざかっているという大問題から目を逸らしたままだ。確かに復帰された頃の教会には神霊の燃えるもの熱いものが備わっていた。「御父様!」と口にすればそれだけで神霊の燃える感覚を受け取れた。その当初の満たされた感覚を取り戻そうと、覚めた論理にどれだけ傾注してもみ旨は進まないと知っておられる御母様は、燃えていたあの初代教会の神霊の火を先ず再び燃え上がらそうと呼びかけられたのだろう。しかし私達は御母様が期待されるほど純粋ではなかった。願いに素直になれない自分を正当化するありとあらゆる言い訳を既に用意してしまっている。本当の路程はその自分との闘いなのだが、結果を残せない形骸化した路程が常習化し、それでも主体に対する対象であるべき自分の存在を取り繕おうとすれば言い訳を用意するしかない。アダムがエバに責任転嫁して言い訳したように、エバがルーシェルに責任転嫁して言い訳したように、私もできないやれないあらゆる言い訳を付着させたまま生活に没頭している。そうなると言い訳に支えられていた不信仰、不従順も、常習化し当然の事のように生活化してしまう。この世の人々の不倫な行動も、最初は罪意識に負債を抱えるけれども、そのうちに慣れてしまって当然の事となってしまうのと同じだ。私には御父様が指示された守るべきものがある。それは訓読であり、安侍日であり、また名節を守って流されないこともそうだろう。いつの間にか守るべきものが蔑ろにされてはいないか、適当にされてはいないか、もう一度意識的に立て直さなければ、とても90度の垂直へと向かう私を用意することはできない。向かう度数が90度でなければ、天の父母様ではなく何か別の存在を求めようとしている。

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