2015年9月29日火曜日

今日の想い 882(創造性、主管性は愛の実から)

人類は何人も幸福を求めている。しかしそれはあくまで幸福であって、肉体的、すなわち感覚的な楽しみ一辺倒を言うのでもなく、或いは逆に肉体的感覚的楽しみを悉く否定して、精神的なもの一辺倒を言うのでもない。今は相容れない心と体がひとつになって、心が求めるものを体も納得して追求し得られるのが幸福だ。性を考えたときに、性の衝動とは肉体的衝動だ。その衝動のままに行動したからといって幸せになれる訳ではない。あるいはその衝動を罪として完全否定してしまえば人類の存続も発展もない。性の自由、フリーセックスを謳う者は人類を動物以下に貶めようとしているのであり、性の完全否定を謳う者がいればそれは人類を偽善人類にしようとしている。人間には心と体があるけれども、この心と体の暫定的統一体として人間は存在している。暫定的であっても一つの統一体とならなければ存在の体を為せない。その表象は知情意の活動という心魂だが、霊的無知であり神の心情に通ずることができず善に生きられないという矛盾性の心魂だ。それでも知を求め心情を求め善を求めるのは神様の私への想いの力が引力として働いているからだ。性の衝動自体は善でもなければ悪でもない。不倫は善か悪かと問われれば悪だが、それは衝動自体が悪なのではなく衝動の使い方を間違えてしまったからだ。幸福を得る三大要素は霊的無知の克服、自我の根拠を神様の心情に繋げる、そして創造性、主管性、神に出会う神秘性としての性の習得だ。人類は性で堕落したから性に対する罪悪感があり、精神性を求めれば性を遠ざける期間も必要だが、創造性、主管性へのエネルギーは性という陽陰の一体化、交わりから発する。私達は御父母様の性に関することを知らないが、私達の重生は明らかに御父母様の天宙的性のエネルギーで霊的に受精し霊的に生まれている。御父母様の性に対する認識は地上の堕落人間達のそれとは完全に異なっていて、地上人間の道徳的理解を超えた事実を堕落的秤にかければ気を失うほどだろう。前にも触れたように、性で堕落したものはそれを凌駕する性で復帰しなければならない。私達は性に関しても御父母様を平面的に判断することを止めなければ常識人間ほど躓いてしまう。御父様は聖和されて霊界に、御母様は残されて地上に、そこには霊界地上界を越えた陽陰の交わりがあり、神様が天の父母様にという神界の位相として立たれた、その天の母を御母様に見るのでなければ、私達は地上の道理、すなわち堕落の道理に霊的翼を屈した存在だということだ。真の父母一体圏、それは新しい天宙として生まれ変わらせる陰陽の性であり、御母様は新しい天宙を成長させる胎でもある。その霊的把握に私達自身を引き上げ届かせようとしなければ、真の父母一体圏はただの言葉でしかなく、一体圏から受け取る勝利的運勢を相続できないままだ。

2015年9月26日土曜日

今日の想い 881(神様は親だから去った者には優しく共に歩む者には厳しい)

私は御母様に従いますと、そう言って留まり同じようにしていていいのかというと、それで問題が解決するわけではない。すなわち摂理が進むわけではない。分派に対して批判はするけれども、ではどれだけみ旨に対して真剣であり結果を残す者となっているかは別問題だ。ある意味一大決心をして新たな中心軸に従おうとする者達の覚悟は認めなければならない。それ以上の覚悟を私達は引き受ける決意を供えてこそ、去った者達も浮かばれるというものだ。教会から去っていった多くの者達がいる。それは躓いて去った者も中にはいるけれども、日本食口に関する限りは大半が厳しさについていけずに去った者達だ。彼等がその無念を抱えずに楽しく人生を送っているとは思えない。負債という重荷を背負いながら目立たず息を潜めて暮らしているのが実情だろう。御父母様は去っていった者達への想いはないだろうか。彼等を思い出すこともなく忘れ去ったまま摂理に向かっておられるだろうか。彼等の無念を晴らし、彼等が負債を覚えるのではなく一時ではあっても一大み旨に参画できた喜びを受け取れなければ、御父母様は真の愛の御父母様ではなく彼等にとって裁きの御父母様になってしまう。御父母様は人類の真の父母だ。誰一人として許しを受けられず愛を受けられない者があってはならない。ましてや厳しい時期にみ旨に参画した者達が耐えられず去ったからと言って、どうして負債を覚えなければならないのだろうか。しかし今の現状はそうなっていない。それは未だ戦いの最中にあるからだ。実体的天一国が立ち、世界復帰の見通しが立つまでは中途離脱した者達へ向ける意識など割けないからだ。御父母様が勝利されたのだから実体的天一国は必ず立つ。それは私達の関知しないうちに別の環境創造から建つのではなく、どんな犠牲が供えられるとしても私達の手で建つ。国を建てるなど言葉だけで他人事のような私達に対して、未だ意識に於いて眠っているような幼い私達が世界を凌駕するほどの意識を覚醒させる為には、思いもよらない事件が起こるだろう。そうして遅かれ早かれ残った私達は、かつて誰も経験したことのない覚悟をそのとき迫られるだろう。

2015年9月24日木曜日

今日の想い 880(判断して裁くのはみ言葉ではない)

社会にはそれなりの道徳的規範がある。私達の教会社会にもそれなりの道徳的規範がある。私達のそれは御父様が語られたみ言葉からきているが、しかし規範は規範であってその規範に雁字搦めになってしまえば、その原因的背後にある心情を無視しかねず教条的姿勢になってしまわないだろうか。愛のみ言葉でありながらみ言葉が戒めと化し裁きの基準になってしまわないだろうか。許せ愛せと言われた御母様の言葉は教条的な私達の姿勢を指摘され、道徳的規範で裁くことをやめるように指示されたと私は思っている。人事の背景を詮索するのに躍起になっているが、その姿勢自体が本人を愛に生きる存在ではなく裁きに生きる存在だと証していることになる。道徳的規範は私達が用いる道具ではあるけれども私達を主管するものであってはならない。道徳的規範は、それを用いてより精神的高次の喜びを受け取れる存在になる為であって、ある事実を知り不平等感を覚え妬み嫉妬から裁きの剣としてそれを用いるなら、その事実は知らされないほうが本人のためには良かったということになる。道徳的規範ですら諸刃の剣であることを忘れてはならない。私達は御子女様に対してそれを宛がい、ある者は御母様に対してそれを宛がい、またある者はいまだ明白にされていない御父様の事実に対してそれを宛がおうとする。私達が社会の道徳的規範で裁かれているように、私達は私達の道徳的規範で兄弟を裁き、さらに御父母様や御子女様に対しても裁いている。そうして巡り巡って自分自身を裁く裁きのみ言葉、戒めのみ言葉として剣先を突きつけられる。教条主義的人間になれば人を許せない。愛せない。自己中心的判断による善悪観で統一するのではなく分立させる。それは本人自身が許しを受け取ろうとしない。愛されようとしない。心と体の分立をさらに際立たせる。御父母様を通して許され愛されるのを否定し、復活して心身一体への道を否定している。許しの本質的な(霊的な)意味がわかっておらず、堕落社会の愛と真の愛の違いを理解しようとしていない。

2015年9月22日火曜日

今日の想い 879

サンクチュアリの説教は度を越していないだろうか。こんな陰謀論的解釈に終始していつ実体的天一国を為そうと腰を上げるのだろうか。食口にしてみれば刺激的内容で興味を引かれるのかもしれないが、そんな聖書解釈で真の父母一体圏を否定し御母様を否定できるのか甚だ疑問だ。説教を見ながらそんな思いや疑問が次々と湧いてきた。御母様が大淫婦など、どう頭をひねくり回せば編み出されるのか私にはわからないが、2千年近く前の霊的黙示を現代の地上、それも教会の内情に当て嵌めるのは土台無理がある。だいたい黙示録は御父母様が勝利されて以降、先天時代を超えて後天時代の黙示までしているのかという疑問があるし、さらに黙示は擬人的、或いは象徴的に見せられたものだという認識からすれば個人を指して具体的に当て嵌めるのはこじ付けとしか思えない。一部のその箇所だけを抜き取って解釈しているが、黙示録全体の解釈からその箇所はそう読み取れるというのであればまだ理屈が通るのかも知れないが、箇条書き的に解釈してもその箇所以前から流れ、以降も続いている黙示物語をどう読み解くのかもなく断言するのは実に危険だ。グループ派が良心は師に勝り神様に勝るというみ言葉だけを抜き取って正義の剣として振り回すのと変わりない。あえて関心も示さなければ燃え上がることもないという考えもあるのだろうが、名の通った先輩食口がなびくようであれば無視することが良策とは言えなくなってしまった。まわりの兄弟にこの問題を投げかけると多くは当たらず触らずという態度で、さあどうでしょうと言葉を濁して逃げられるのが落ちだが、かといってみ旨に燃える姿勢も見れず、冷めていてそんなのはどうでもいいとしか思っていないようだ。打てば響くようなものは返ってこない。心情の神様なら、そして想いの強い方に現実が流れていくなら、解釈がどうであれ霊的勢力として油断すべきではないだろう。グループ派の問題にしろこのサンクチュアリにしろ私達の内面の表れでもあるという認識に立てば、ゴシップ的な関心ではなく私達の内的課題として捉えて、彼等に通じる私の内的部分を抉り出して悔い改める必要がある。これらの課題を通して真の父母は私の中に立っておられるという認識をますます強くしていく者が、摂理の中心的位置に立って御母様の願いに応えていく。グループ派の人と話せばこう言えばああ言うという論理の応酬になってしまう。サンクチュアリの場合論理ではなく御父様という権威、それは人間御父様という権威なのだが生きておられた御父様と近しい者ほどその感情的部分で虜にしようとしている。私達は知的論理を超えて絶対信仰絶対服従を供えるべきであり、さらに情的な人間的想いを超えて絶対信仰絶対服従を供えるべきだ。なびく者達は御父様の面影をその御子女様にみている。真の父母ではなく人間御父様を慕った者が陥る試練だと捉えるべきだ。

2015年9月6日日曜日

今日の想い 878(心と体の境界線)

先にも記したように祈祷自体を変える必要性を覚えて、導いてください、護ってください、何々してくださいという受身の祈祷を完全にやめることにした。これからは、何々します、何々をしましたという能動的祈祷に変える。私自身が変わることが第一であるが、変わるにしても変えてくださいとはお願いできず、変わりますと宣言する私になることが必要だ。受身で変えてもらうのではなく、私が私自身を変えていく。思えば全てにおいて他人任せであり、出来ないことを環境のせいにし神様のせいにしてきたことに今更ながら気付いた。もちろん頭では認識していたが、密度の濃い体を通過させて私の中に落とし込むには至らなかった。この心と体の強固な境界線を越えることが出来なかった。人は普通、この境界線を認識できない。御父様が心と体の戦いを一生続けるのかと常に私達に問いかけられたけれども、信仰を持つにしても、霊界を信じるにしても、それでも見えないこの境界線を認識して打ち破ろうとするには現実の自分自身と決別しなければならない。私自身がこの矛盾を超えて存在しているのではなく、矛盾の中に存在しているのだから境界線が認識できるはずもない。新しく生まれ変わった私、重生した私という存在に比重を移して現実の自分自身と決別する必要がある。心と体の間にある境界線、実は肉体の目覚めと眠りの境にある深淵も、意識と無意識の境という存在意識の有無の深層も、さらには地上界と霊界の境にある三途の川も、心と体の境界線突破と共に開かれる。食口の中には霊的に見えたり聞こえたりする者もいるけれども、本当の霊的感性は心と体の一体化と共に開かれるのであって、そうなっていない自分が霊的に見えたり聞こえたりするのは十分注意する必要がある。何らかの霊的存在が見させたのであり聞こえさせたのであって、その正体をわからずに、見たままを聞いたままを真実とするのは実に危ない。憑依体質と霊的感性の開花は全く異なるものだ。