2015年9月22日火曜日
今日の想い 879
サンクチュアリの説教は度を越していないだろうか。こんな陰謀論的解釈に終始していつ実体的天一国を為そうと腰を上げるのだろうか。食口にしてみれば刺激的内容で興味を引かれるのかもしれないが、そんな聖書解釈で真の父母一体圏を否定し御母様を否定できるのか甚だ疑問だ。説教を見ながらそんな思いや疑問が次々と湧いてきた。御母様が大淫婦など、どう頭をひねくり回せば編み出されるのか私にはわからないが、2千年近く前の霊的黙示を現代の地上、それも教会の内情に当て嵌めるのは土台無理がある。だいたい黙示録は御父母様が勝利されて以降、先天時代を超えて後天時代の黙示までしているのかという疑問があるし、さらに黙示は擬人的、或いは象徴的に見せられたものだという認識からすれば個人を指して具体的に当て嵌めるのはこじ付けとしか思えない。一部のその箇所だけを抜き取って解釈しているが、黙示録全体の解釈からその箇所はそう読み取れるというのであればまだ理屈が通るのかも知れないが、箇条書き的に解釈してもその箇所以前から流れ、以降も続いている黙示物語をどう読み解くのかもなく断言するのは実に危険だ。グループ派が良心は師に勝り神様に勝るというみ言葉だけを抜き取って正義の剣として振り回すのと変わりない。あえて関心も示さなければ燃え上がることもないという考えもあるのだろうが、名の通った先輩食口がなびくようであれば無視することが良策とは言えなくなってしまった。まわりの兄弟にこの問題を投げかけると多くは当たらず触らずという態度で、さあどうでしょうと言葉を濁して逃げられるのが落ちだが、かといってみ旨に燃える姿勢も見れず、冷めていてそんなのはどうでもいいとしか思っていないようだ。打てば響くようなものは返ってこない。心情の神様なら、そして想いの強い方に現実が流れていくなら、解釈がどうであれ霊的勢力として油断すべきではないだろう。グループ派の問題にしろこのサンクチュアリにしろ私達の内面の表れでもあるという認識に立てば、ゴシップ的な関心ではなく私達の内的課題として捉えて、彼等に通じる私の内的部分を抉り出して悔い改める必要がある。これらの課題を通して真の父母は私の中に立っておられるという認識をますます強くしていく者が、摂理の中心的位置に立って御母様の願いに応えていく。グループ派の人と話せばこう言えばああ言うという論理の応酬になってしまう。サンクチュアリの場合論理ではなく御父様という権威、それは人間御父様という権威なのだが生きておられた御父様と近しい者ほどその感情的部分で虜にしようとしている。私達は知的論理を超えて絶対信仰絶対服従を供えるべきであり、さらに情的な人間的想いを超えて絶対信仰絶対服従を供えるべきだ。なびく者達は御父様の面影をその御子女様にみている。真の父母ではなく人間御父様を慕った者が陥る試練だと捉えるべきだ。
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