2015年9月24日木曜日

今日の想い 880(判断して裁くのはみ言葉ではない)

社会にはそれなりの道徳的規範がある。私達の教会社会にもそれなりの道徳的規範がある。私達のそれは御父様が語られたみ言葉からきているが、しかし規範は規範であってその規範に雁字搦めになってしまえば、その原因的背後にある心情を無視しかねず教条的姿勢になってしまわないだろうか。愛のみ言葉でありながらみ言葉が戒めと化し裁きの基準になってしまわないだろうか。許せ愛せと言われた御母様の言葉は教条的な私達の姿勢を指摘され、道徳的規範で裁くことをやめるように指示されたと私は思っている。人事の背景を詮索するのに躍起になっているが、その姿勢自体が本人を愛に生きる存在ではなく裁きに生きる存在だと証していることになる。道徳的規範は私達が用いる道具ではあるけれども私達を主管するものであってはならない。道徳的規範は、それを用いてより精神的高次の喜びを受け取れる存在になる為であって、ある事実を知り不平等感を覚え妬み嫉妬から裁きの剣としてそれを用いるなら、その事実は知らされないほうが本人のためには良かったということになる。道徳的規範ですら諸刃の剣であることを忘れてはならない。私達は御子女様に対してそれを宛がい、ある者は御母様に対してそれを宛がい、またある者はいまだ明白にされていない御父様の事実に対してそれを宛がおうとする。私達が社会の道徳的規範で裁かれているように、私達は私達の道徳的規範で兄弟を裁き、さらに御父母様や御子女様に対しても裁いている。そうして巡り巡って自分自身を裁く裁きのみ言葉、戒めのみ言葉として剣先を突きつけられる。教条主義的人間になれば人を許せない。愛せない。自己中心的判断による善悪観で統一するのではなく分立させる。それは本人自身が許しを受け取ろうとしない。愛されようとしない。心と体の分立をさらに際立たせる。御父母様を通して許され愛されるのを否定し、復活して心身一体への道を否定している。許しの本質的な(霊的な)意味がわかっておらず、堕落社会の愛と真の愛の違いを理解しようとしていない。

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