2015年11月27日金曜日
今日の想い 894
「富んでいる者が神の国にはいるよりは、駱駝が針の穴を通るほうがもっとやさしい。」(ルカ伝18.25)とある。しかし敢えて食口には言いたい。今の時代は富んでいる者の方が霊界も開放できるし、富んでいる者の方が氏族伝道もやり易いし、もちん富んでいる者の方が献金もできる。先祖解怨は210代から420代と言われて、それをしようと思えばお金は益々必要になる。お金はいくらあっても足りないのが現代摂理の歩みだ。そうなると天国に入るのに金持ちは難しいどころか、逆に金持ちでなければ天国には入れない、と言っても過言ではないだろう。聖職者は清貧を貴ぶイメージ、という認識が私達にはあるが、摂理を進めていくために先ずそのイメージを壊さなければならない。献金のノルマは大きなものであったけれども、逆説的にいえば天文学的献金ができるほどの経済力を特に日本食口は持てるはずと言う事を前提として要求されたものであったとも言える。ユダヤ系が世界金融を握っているように、私達はそれを超えるほどの世界経済に影響を及ぼす何らかの可視的、不可視的財産を握らなければならない。摂理を担う私達が本物ならユダヤ系を超える何かを授かっても決して不思議ではない、と思うのだがどうだろうか。3年で天国はできると言われ、それを信じて献身したが、それよりは余程可能性としてはあり得ると思っている。いや、カインの本道としてそうあるべきだ。いつの頃からか復帰された当時の夢や理想の翼が萎れてしまい、地の塵に埋もれたままでいるが、今こそ掘り起こして、縛りを解いて放つときが来ているのではないだろうか。御父母様の心情圏にある者なら、相続した心情の財宝が具体的現実的外的な装いを得ることは原理的であるはずだ。日本食口は多くを捧げてきた。しかし多くを捧げながらどれほど捧げたもの自体の価値を認識していたかというと疑問が残る。それは価値を知ったものこそが主管主となるのは当然だからだ。日本食口は多くを捧げながら、しかしお金は流すばかりで捧げたのではなく、本当に捧げようとしたものは精誠であったはずだ。だからお金がお金としての価値を産まず、そうなると流れて消えていく運命であるのも頷けるが、精誠を捧げて母の国日本として認められた以上はこれから復帰した主管性を発揮する、即ちあらゆる万物への価値を知っていくことになる。ユダヤ民族は犠牲になってきたその歴史的歩みから主管性を復帰している。ある物事への価値を見出す道は、一方でそれを簡単には手に入れられない環境を通してその本質的価値を知ることになる。彼等は犠牲を通して、お金の価値を誰よりもよく知ったが故に、世界を制覇するほどのお金の入ってくる仕組みを見出すことができた。日本の兄弟達はどれほど切実にお金の意味や尊さを肌身に感じることができただろう。多くの食口が病に蝕まれながらどれほど健康の意味や尊さを知ったことだろう。多くの食口が、結局は富を得ることはなく、結局は病から解放されることはないと諦めの心境にいるのではないだろうか。しかし本当にそうだろうか。得るのは棚からぼた餅式で得ることはないのであり、その価値をよくよく知っているが故にそれを手にする方法や道筋がわかるから得られるのではないだろうか。私達は日々の祈祷をもっと具体的にすべきだろう。公的祈祷は別としても、日々の祈祷には私からの真摯な問いをもって祈祷することで、些細なことだと思っていた日常の中に答のヒントが与えられていて、そこにピントを合わせられるはずだ。ピントさえ合えばその本質的流れを見ることができ、その流れに立って手のひらを差し出すだけでいくらでも富を得ることができる。
2015年11月26日木曜日
今日の想い 893
御父様は生殖器についてどれほど語られたことだろう。生殖器について語られる時間、私達は苦笑しながらさっと流してしまおうと、他の兄弟に反応を悟られまいと、無意識のうちの恥の本性が現れざるを得なかったが、おそらく御父様は相対しない私達をご覧になられながら寂しい思いをされたのではないだろうか。私達は堕落した恥ずかしい生殖器しか知らず、どれほどその重要性を教えられても、その器官を想起するだけで誘惑されて異性に向かおうとする感覚がムクムクと起こり始めるのを知っていてうろたえる。それを皆に悟られまいとする反射的苦笑いだ。ひとりでいる分には如何なる想像もし、興奮を覚えるものには関心が向いてしまうにもかかわらずだ。しかし誰かの面前では何の関心も抱かないか、或いは一瞬たりとも恥ずかしくない自己主管が為されている風を装ってしまう。生殖器や性に関する私達(私だけ?)の感覚はおそらく99%堕落的感覚が占めている。家庭を出発する儀式に於いても、そこに堕落的感覚が入り込んでいないかと問われると私は口篭るしかないが、その性に関する手順や取り決めには御父母様の勝利されたサタンの介在できない秘儀的内容がそこにはあって、その堕落的感覚を凌駕するものに支えられている。第四次アダム心情圏還元のみ言葉は多くは生殖器に関する内容であって、第四次アダムと復帰された生殖器が大きく関連していることがそのみ言葉から取れる。性で堕落したように性で復帰される。さらに天一国時代は性でこそ人格完成が為されると言われているようにも思われる。霊的指導される先生によれば夫婦が完全一体になることで人格完成は為されると言われたようだが、そこに生殖器が、性が関わってくることは当然のことと言えるのではないだろうか。一方で触れてはならない戒めとしての性が、夫婦と言う関係性に於いてはとことん性に向き合うように仕向けられる。ある時から夫婦は裸で寝るように言われたことがあるが、アダムとエバも堕落していないときは裸だったという理由からそうなのか、そう言えば裸になってお互いの体を研究する(?よく知る)ようにと言われたこともあったと思うが、と同じ頃(同じ話の流れだったかも知れない)に夫婦生活を禁止するという話もあって私は混乱した覚えがある。しかし今考えてみると裸になってよく知ることと行為に至ることは同じではない。感覚的刺激に挑発されて当然そうなってしまうという堕落人間としての前提では同じだが、おそらく御父様は純粋に、裸でありながら一線を越えない堕落以前のアダムとエバの関係性を求められての指示だったのかも知れない。夫婦として完全一体となっていない状態で夫婦の性にどう向き合うのか、ということだが、それが欲望の捌け口であれば「クライマックスを迎えて零点に飛び出す」という御父様のみ言葉は成就されないだろう。お互いを想う愛が高まる中で愛の儀式として天に捧げる祭物、いや祭愛として天が取るときこそそのみ言葉は成就されるのではないか、、というのが当面の私の仮説なのだが、勿論零点に飛び出す体験どころか零点の意味すらわかってはいない。
2015年11月17日火曜日
今日の想い 892
今の時代圏は全く新しい時代圏であることを認識しなければ、先天時代の蕩減時代と同じような感覚で起こることを見ている(観察している)と、摂理の本流からは距離を置いてしまいかねない。サタンがサタンになってしまったのは人類始祖アダムとエバが真の父母として立たなかったからであり、本来絶対悪、絶対善なるものは先天時代で培ってきた通常の私達の善悪観では測れないものだ。神様は絶対信仰、絶対愛、絶対服従で創造してこられたが、アダムとエバが堕落し、真の父母が立たなかった時点で人類は絶対という概念を失っている。絶対という概念を失えば、唯一、不変、永遠という概念も失っている。地上に真の父母が立たなければその概念を取り戻すことはできず、堕落人間の捉えている絶対は中身の無い輪郭だけの絶対に過ぎない。御父母様が勝利されることで絶対概念は取り戻されたが、私達がその勝利された概念を相続しているかどうかは別問題で、先天時代と御父母様が開いて下さった後天時代の明らかな違いを認識できないうちは、中身の無い先天時代の概念、それは概念と言うべきではなく観念に留まるものだが、先天時代と同じようにそれによって物事の判断をし選択をしている。今の混乱を混乱と見るのではなく、新しい時代圏に相応するように打ち直されていると見るべきだ。本流と袂を分かった分派も、本流がより強固な本流となる為に、敢えて天使界の役事をして相反する立場に立たせることで本流を打ち直している。本流が本流として天一国の為の環境創造を推進するほどに打ち直されれば、反対派もその鉄槌の役目を終えて帰ってくるはずだ。がしかし、直ぐにでも帰ってこれるほどに甘くは無いだろう。本流が、打ち直されているという身の痛みを覚えるほどになって、本流の中に隠れていた真の父母の血統圏の本質が滲み出るようになって初めて反対派はその任務を終える。口先でどっちが善いの悪いのと言っているうちは未だその任務の入り口に立っているに過ぎない。これから益々翻弄され、最終的には相当量の食口達が反本流に立つやも知れない。本流に最後まで残ろうとすれば、氏族メシヤとしての使命を完遂することだと悟り専念してこそ残り得る。しかしよく考えれば、私は本流にいるけれども本流の本流かと問われれば目を逸らさざるを得ないだろう。ほとんどが何だかんだと言い訳しながらできないこと、やらないことに留まっている。本流にはいるけれども反対派予備軍に入っている。反面教師としての役目に落とされようとしているのが私を含めた殆どの食口であるという現状を見なければならない。もしアダムが堕落しなかったら、誘惑するエバはアダムを真のアダムとして鍛え直した立場であり、もしエバが堕落しなかったら、誘惑する天使長はエバを真のエバとして鍛え直した立場に立っていたはずだ。
2015年11月10日火曜日
今日の想い 891 ( 原罪について )
確かに講論には、「原罪は人類始祖が犯した霊的堕落と肉的堕落による血統的な罪」とあるが、原罪という血統的な罪を霊的堕落と肉的堕落の「両方」の罪を指して呼ぶ概念、と捉えると、恰も霊的堕落の罪も血統的であり肉的堕落の罪も血統的なものと受け取る者も出てくるかも知れない。私は霊的堕落と称する原罪の原因的堕落事件があり、肉的堕落と称する原罪の結果的堕落事件があって初めて原罪という血統的なものになったと受け取っているがどうだろうか。エバ個人だけに関して言うと、霊的堕落を肉体とは関係のない堕落だと捉えれば、もしアダムを誘惑しなかったら霊的堕落はしたけれども肉的堕落はしなかったというふうに言えるだろうか。肉体から霊人体を分離させて霊界で天使長と関係を持っただけだと言えるだろうか。エバ個人に関して言えば、エバは地上の性的交渉をアダム以外と持ち、それが人類の霊的堕落となり、そしてアダムとも持って、それが人類の肉的堕落となったと私は理解している。それは両方とも肉的堕落だと捉えるかも知れないが、人類にとってはエバの行動結果が霊的堕落となり、アダムを巻き込んでの行動結果が肉的堕落となったという認識だ。だから原罪という血統的なものとなった。霊的堕落と肉的堕落の共通点を見るなら、両方とも性によるものであるということは堕落論の堕落の経路からわかる。しかし地上で繋がれることが天でも繋がれるのであれば地上で堕落すれば天でも堕落するのであり、天で堕落してそれから地上で堕落したという言い方自体天と地を異なる世界だけれども同じ次元と捉えていることになる。天という概念、霊界という概念を正しく捉えないと堕落論は深入りすればするほど迷宮に入っていく。霊的に不倫を犯しているが地上で不倫は犯していない、或いは地上で不倫は犯しているが霊的には不倫していない、、等という言い方ができるとは思ってもいないし、そんな人物は一人もいないだろう。だから堕落論を紐解くには余程の注意が必要になる。霊的堕落は霊界に限って起きたエバが肉体から霊人体を分離しての事件ではなく、天使長がまとう実体存在、それが御父様が言われたようにアダムの従兄弟、或いはアダムの叔父なのかも知れないが、そういう地上存在が必ずいたはずであり、エバはそれと性的に交渉を持った。この事実の検証は今のところそれぞれが思うところに任せるしかなく、それは摂理観と信仰観に差ほど影響を及ぼすことは無いのかも知れないが、ここで本当に触れておきたいことは御母様の独生女発言に関する認識だ。真の父母様宣布文サイトに上げられている説明では御母様は肉的堕落以前に立っておられるとし、その前提として原罪を霊的堕落の罪と肉的堕落の罪という二つの罪と捉えてその上での説明となっている。それは御母様の発言を原理によって論理的に説明しようとしているのはわかるが、論理で理解できないということであるなら御母様の発言を待たずとも八定式頃からの訓読会の御父様のみ言葉は我々の論理を既に超えている。私達の頭では理解できないその辺りからのみ言葉の一つ一つを納得できる論理的説明で積み上げてきて、御母様の発言もその流れで原理的な論理を差し出すならいいのだろうが、どうも唐突なこの説明には無理があるように思える。御父母様一体圏にあられる御母様の言葉です、と断定して済ませることだと私は思うのだがそれではまずいのだろうか。天と地の概念、堕落論の理解、原罪が血統的なものになった経緯、それらを正しく積み上げていってこそ神様のひとり娘、独生女も原理的論理性に立たせることができるが、それは先に任せて今は御父母様一体圏を受け入れれば当然受け入れられることと理解すればそれで事足りる。私達が地上存在である以上霊と肉は分離できない。原因のない結果はないのであり、地上は全て結果世界であり結果の一つ一つに必ず原因があり、霊と肉は存在の裏表になっている。よって結果的肉的堕落は原因的霊的堕落なしには有り得ないし逆も言える。そして善悪の実がエバの生殖器であれば次元の違う霊的存在である天使長は地上存在を通して原因的に関わることでしか善悪の実を食べることはできない。事実そうやって善悪の実を食べることで、人類を偽りの愛で主管し、天宙を主管してしまった。しかし御父母様が勝利されることで神様は御父様の体をまとい、そして御結婚された。御母様という地上に於ける神様のひとり娘は天上に於いては神様の相対だ。この事実の説明が現時点に於いては只の説明で、実感を得て理解している者がいるかどうかはわからない。しかし近い未来に当然の事として実感として受け取れるその時の私が本当の私だと認識し、その私に向かって正しく認識の道筋を取っていく私になる。
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