2015年11月26日木曜日

今日の想い 893

御父様は生殖器についてどれほど語られたことだろう。生殖器について語られる時間、私達は苦笑しながらさっと流してしまおうと、他の兄弟に反応を悟られまいと、無意識のうちの恥の本性が現れざるを得なかったが、おそらく御父様は相対しない私達をご覧になられながら寂しい思いをされたのではないだろうか。私達は堕落した恥ずかしい生殖器しか知らず、どれほどその重要性を教えられても、その器官を想起するだけで誘惑されて異性に向かおうとする感覚がムクムクと起こり始めるのを知っていてうろたえる。それを皆に悟られまいとする反射的苦笑いだ。ひとりでいる分には如何なる想像もし、興奮を覚えるものには関心が向いてしまうにもかかわらずだ。しかし誰かの面前では何の関心も抱かないか、或いは一瞬たりとも恥ずかしくない自己主管が為されている風を装ってしまう。生殖器や性に関する私達(私だけ?)の感覚はおそらく99%堕落的感覚が占めている。家庭を出発する儀式に於いても、そこに堕落的感覚が入り込んでいないかと問われると私は口篭るしかないが、その性に関する手順や取り決めには御父母様の勝利されたサタンの介在できない秘儀的内容がそこにはあって、その堕落的感覚を凌駕するものに支えられている。第四次アダム心情圏還元のみ言葉は多くは生殖器に関する内容であって、第四次アダムと復帰された生殖器が大きく関連していることがそのみ言葉から取れる。性で堕落したように性で復帰される。さらに天一国時代は性でこそ人格完成が為されると言われているようにも思われる。霊的指導される先生によれば夫婦が完全一体になることで人格完成は為されると言われたようだが、そこに生殖器が、性が関わってくることは当然のことと言えるのではないだろうか。一方で触れてはならない戒めとしての性が、夫婦と言う関係性に於いてはとことん性に向き合うように仕向けられる。ある時から夫婦は裸で寝るように言われたことがあるが、アダムとエバも堕落していないときは裸だったという理由からそうなのか、そう言えば裸になってお互いの体を研究する(?よく知る)ようにと言われたこともあったと思うが、と同じ頃(同じ話の流れだったかも知れない)に夫婦生活を禁止するという話もあって私は混乱した覚えがある。しかし今考えてみると裸になってよく知ることと行為に至ることは同じではない。感覚的刺激に挑発されて当然そうなってしまうという堕落人間としての前提では同じだが、おそらく御父様は純粋に、裸でありながら一線を越えない堕落以前のアダムとエバの関係性を求められての指示だったのかも知れない。夫婦として完全一体となっていない状態で夫婦の性にどう向き合うのか、ということだが、それが欲望の捌け口であれば「クライマックスを迎えて零点に飛び出す」という御父様のみ言葉は成就されないだろう。お互いを想う愛が高まる中で愛の儀式として天に捧げる祭物、いや祭愛として天が取るときこそそのみ言葉は成就されるのではないか、、というのが当面の私の仮説なのだが、勿論零点に飛び出す体験どころか零点の意味すらわかってはいない。

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