2016年4月8日金曜日

今日の想い 915

人皆それぞれに、思うところの願いを叶えたいという欲望を持っている。願いを叶えられれば自分は幸せになれる、或いはより幸せになれるという漠然とした期待がある。実際のところは欲望を叶えたことで得られる幸福感は得た瞬間から色褪せていくものであり、絶対的な幸福感、永遠なる幸福感を求めて欲望は尽きない。次なる願い、更なる願いを叶えたいという欲望に心を捧げ続けてその途上で生を終える。講論の総序には「自己の欲望が満たされるとき幸福を感じる」と記されているが、それは幸福感をいっているのであって幸福そのものではないのではないかという自論が私の中にあり、幸せは勝ち取るものではなく委(ゆだ)ねることで与えられる、すなわち絶対主体を見出した完全対象として主体の愛に包まれることが幸福を得ることだと理解して生きている。善なる欲望、悪なる欲望とあるが、復帰歴史を見る限り善悪観は時代時代で異なり人それぞれでも異なっている。私達が語る善悪観は実は社会的に線を引かれた善悪観であったり、一方的に受け取った原理観によって線引きされた善悪観であったりで、良心からのものとは微妙に異なるのではないだろうか。原理を知っているといいながら探り探り生きている状況はこの世の者達と変わらないのかも知れないが、誰であれ自分の中の良心(神)を見出した者こそが良心という主体を得て愛に包まれ幸福を得るはずだ。世間一般に言われる良心は良神の暫定的影であり、良神を立てようとするなら真の父母に繋がり祝福されて重生しなければ良心という影は影のままであって、天の父母が私を天の血統圏にある存在として認識され相対されることはないだろう。品行方正で人格者だと言われる人物であっても、影に包まれても幸福感は手中に留まらず手からすり抜けて落ちていくのであり、自我の永遠性の認識もなく寂しくこの世を去る死を迎えざるを得ない。人類の代表である食口が今悟らなければならないことは良心が良神として立っているかどうかであり、その主体を得た絶対対象になれれば真の愛に包まれ幸福を得る。そうして神人一体存在は新たな主体となり中心となって氏族や国の、或いは社会の存在を新たな対象として抱え込んでいく。神人一体の「私という良神」という概念が備わる為には真の父母に繋がり、真の父母の血統圏に入らない限り、真の父母は真の父母様という尊敬する他人でしかない。私という氏族メシヤ摂理の達成は、「私という良神」が立たない限り御題を他から与えられた立場のままで他人事だ。氏族復帰をどれだけ御題目として唱えてもその摂理の入り口にも立ってはいない。

0 件のコメント: