2016年4月29日金曜日

今日の想い 918

御父様の「栄光の冠」のフレーズに、信じたら騙されるのに騙されても信じなけばならないかと自らに問われる下りがある。次元は低いけれども私なりに今同じような心境だ。投資してもほぼうまくいかないと思いながらもそれでも投資しなければならないのか。出せと言われれば出してきたのは、日本食口がそうであったように自分とて同じだ。日本の信仰として中心に対して絶対であるのは芯の芯まで浸みこんでいる。差し出した後の責任はアベルが取り神様が取るのであり、差し出すまでが自分の責任というものだ。しかし後天時代に入ってその捉え方はどんなものだろうかと考えてしまう。原理的にどうだと言う前に自分の良心がそれを許さない。差し出した後の責任も取るべきというのが、御父様が聖和された後、御父様に繋がる私の良心(神)に問う答として返ってくるからだ。投資という概念はビジネス上のことであり、納得した上で出すというのは当然の事なのだが、しかし私達がビジネスと捉えている歩みは摂理という願いに沿ったものであり、摂理から外れるのであればビジネスの道理を曲げてしまうこともあって、現にそうしてきた。レストランは生き残る体力を削ってでも中心に捧げてきた。この店だけでも投資や貸付の名目で数ミリオンという万物を捧げてきた。捧げてきた結果がレストランの減少でありそれに付随して担当する兄弟さえも失ってきた。そんな状況でありながら、展開して欲しいと願われたレストラン摂理の願いに沿ったことにはならない。今に至る原因や経過を見ようとしないで、今の惨憺たる状態だけを見て担当する者達の情けなさを指摘し、既存の店の業態の在り方を否定するのは間違っている。思うに日本の食口達の状況とレストラン部の状況は実にリンクしている。泣きっ面に蜂状態のままで日本もレストランもそのまま潰れるのを許して果たしていいのだろうか。多額の借金までして、子供の教育費や養育費まで削って捧げてきた、そのなれの果てが今までの歩みはいったい何だったのかという問いしか残らないのならば、歩んできたのは犠牲精神ではなく棄て去り放棄してきたに過ぎないということになる。「栄光の冠」には裏切られても信じるべきだと結論され、裏切った者をも愛することで勝利を手にしたと断言されている。さて、私達の歩みは犠牲精神だったのか、それとも捨て去ったに過ぎなかったのか。前者であるなら誰に対する犠牲だったのか。信じて差し出したのなら差し出したものはどうなりましたかと先ず問うべきであり、それは見返りを期待してのことではなく摂理に貢献したのかどうかの確認であり、もし実を結ばなかったとしても相手を批判するのではなく、許して愛するところまでいかなければ犠牲精神ではなく棄て去っただけだという結論になる。

0 件のコメント: