2016年5月19日木曜日

今日の想い 919

アダムとエバ本人は堕落して救世主を待ち望んだろうか。堕落の血統が人類歴史に刻まれていきながら何時の誰の時点で救世主を求めただろうか。ユダヤ民族が選民思想のもとで糾合されながら、キリストを待ち望んだ群れであることは旧約から覗える。しかしながら彼等はイエス様を救世主として迎え入れることはなかった。彼等が求めていた救世主像とは異なっていたからだ。それどころか彼らにとってイエス様は律法に反する教えを伝える反動者だった。クリスチャン達がイエス様の愛の教えを宣教しながら、キリストイエスの再臨を待ち望んだことは新約から覗える。統一食口は文先生を真の御父様といい再臨主だと信じているけれども、殆どのクリスチャン達は歯牙にも止めないし中には反キリストと叫んでいる者もいる。ユダヤ民族からみたイエス様が律法に反する者であったように、クリスチャン達からみた御父様はイエス様の愛の教えによって形作られた再臨主のイメージには全くそぐわなかった。ユダヤ民族もクリスチャンも、彼等の思い描き求めた救世主像、再臨主像は、本来のそれとは異なっていた。像、イメージとは何だろうか。堕落人間にとってイメージは主観的であり御都合的であることは間違いなく、イメージ自体に既に堕落の色合いが込められていると言っていい。しかし一方で人間はイメージを持つことなく求めることはできない存在でもある。求めない存在に対して相対することなどできない。たとえ救ってくれる存在が傍にいたとしても素通りしてしまう。人類は歴史を通して救世主のイメージに対する堕落的色合いを消してきた。御利益的なものを削ぎ落としていった。民族を導く王、全ての王の頂点に立つ王の王というイメージを捨てる必要があったし、再臨主は天から下る超越存在だというイメージを捨てる必要があった。私達食口はユダヤ民族やクリスチャン達のようにイメージを持って御父様を待ち望んでいたのではない。原理を受け入れることで植え付けられた原理的イメージは御父様の存在そのものだった。しかしそれは多分に人間御父様としてであったし、聖和された今人間御父様に代わる存在を求めている。それがある食口は御子女様であるけれども多くは御母様のはずだと思っている。アダムの失敗により人類は第二アダムを求め、第二アダムの全うできなかった使命を担う第三アダムを求め、今は第三アダムの勝利圏を相続した第四次アダムを探している。私達は本当に第四次アダム心情圏に立っているだろうか。今日の曇天の日のように天を遮られ、暗中模索しながら肝心の羅針盤である良心さえはっきりと掴み切れておらず、拠り所のない放浪者と化した食口達が霊的に流浪している。神人一体理想を完結しない限り、どのようなイメージであれ、どのような存在であれ、救い主を求めざるを得ない。御父様は私達に遺言書を残された。八大教材教本だ。このみ言葉こそが救い主だという観点に立ち、人間御父様に代わる霊的支柱をそれぞれの中に、家庭の中に、国の中に、世界の中に立てなければならない。今は待ち望んでいる時ではない。自らが主体的に能動的にこの霊的支柱を立てる時だ。中心がどこかにあるのではない。中心は自分の中に、家庭の中に、国の中に立てるものだ。第四アダムを待ち望みながら更に二千年を送ろうとするのだろうか。イエス様が天国はあなた方の中にあると言われたように、救い主は私達の中にある。み言葉による生命、み言葉による愛、み言葉による血統を私の中に見出し、それが救い主であり中心だ。

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