2016年5月28日土曜日

オバマ広島訪問

オバマ大統領が我が故郷広島を訪問した。滞在は一時間半の短いものだったけれども、日米間、そして世界にとってもこの一時間半の一連の行動は大きな意味が込められ、人類は破壊と破滅に向かうとする近代歴史観を覆し、また新しい歴史の善き出発を導くものでもあった。犠牲者達の犠牲が、捨てられた生命ではなく活きた犠牲として生かされ、その彼等の霊的復活、心情復活を感じ取ったのは私のみならず多くの広島市民、更に長崎市民も含めてそうであったはずだ。それは大統領が進み出て被爆者の代表に接して言葉を交わし、抱擁までした彼等の表情に見られる想いが全てを語っている。私は広島の故郷にこれまでにない誇りを感じた。罪なく犠牲となった犠牲者達の尊い精神の高みを見上げた。犠牲精神が真の愛ならオバマの訪問を受け入れた犠牲の霊達こそ真の愛を身をもって証しした者達だ。そしてここまでくるのに71年を要した道のりは、犠牲を恨みと結論付けるか愛への昇華とするのかの彼ら自身の内なる戦いだった。彼等は肉体を失っても内的霊的に戦い続けてきた。20数万に及ぶ魂達の戦いだった。数年前であれば殺され損だと恨みに燃えて当然の魂達が、真の愛としての犠牲というそれまでに無かった内的価値観に至ることができたのは、真の父母が犠牲的精神の勝利を勝ち取り、その価値観を高く掲げられたことに因っている。真の父母の勝利圏を地上のどこに見ることができるかと、食口ですらその指摘に口籠ってしまうけれども、内的霊的見地に立った者であれば真の父母の勝利圏をそこに見て、それはもはや否定しようのないものだ。地上の食口よりは霊界にいる者達の方がよっぽど認識している。私は犠牲者達を誇りに思うとともに、自分のあまりにも自己中心な姿勢と霊的無知に恥ずかしさを覚えた。何と私は些細なことにすら恨み多き者だったろう。自分が、自分の家庭が誰よりも犠牲を払っているという感情からずっと抜け出せなかった。事実として認めようとも感情として認められなかった。だから不満を覚えたし、信仰の基本である感謝も口から出るのとは裏腹で抜け殻に過ぎなかった。偽善者だった。世論をおして広島訪問を英断したオバマの想いにも、恨みを晴らそうとするのではなく希望の出発として訪問を受け入れた被爆者達の想いにも、真の愛に通じるものがある。彼等こそ真の父母を叫ばなくても真の愛の本質に生きようとしている。誰よりも真の愛主義、心情主義であるべき私でありながら、いつのまにか打算的で政治的な見地に捕らわれていた。後の者が先になり先の者が後になる。いつのまにか逆転して、真の父母を知る私が彼等を見上げる内的状況になってしまった。でも、それはそれで私の願いだったはずであり霊としての喜びが込み上げてくる。兄弟であり子女である彼等が親の位置の私を越えてくれたのだから、、。スピーチするオバマや聴衆を見守るように、茨の冠を被った産業奨励館が背後でやさしく立っていた。

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