2016年6月15日水曜日

今日の想い 923

地上の感覚的なものはこの世の神であったルーシェルによってもたらされたものだ。人間が感覚的喜びを求めることを第一とする限り、人間はルーシェルの末裔であることから逃れられない。病に侵された者は体を癒されることを望んでいる。しかし体を癒されることのみに望みを終結するのは体を第一とした執着がある。痛みを取り除いてほしいと身体的安楽を求める感覚の上での欲求だ。しかしほとんどの場合その欲求は短期間には聞き届けられない。あるいは第二の人生、第三の人生でやっと手にできるものなのかも知れない。痛みに耐えながら、生活が極めて狭められることに耐えながら、癒されたいというその体の欲求が聞き届けられない恨はどこに訴えたらいいのだろうか。恨が積まれていく胸の内を掻き毟り、解放されたいともがき続けながら人生を送る今生は天に訴えてもどうしようもないのだろうか。金持ちもいれば貧乏人もいるように健康体の人もいれば病人もいる。貧乏人が不幸で病人は不幸だと誰もが決めつけるのだろうか。この世を犠牲にすることであの世を立てている。感覚に犠牲を強いることで心情をもたらそうとしている。内的苦悶であろうが外的痛みであろうが、この世で犠牲を払うことで本質的愛、真の愛に生きる自分を培っている。どうせ犠牲として供えるなら未練がましく供えるのではなく、腎臓を犠牲にするなら肝臓までも差し出せばいい。地上で一日でも長く生き延びることより天上の永生生活の環境を整えたほうがいい。老い先短い残された人生なら尚更だ。感情に積もり積もった恨を訴えることのみに意識を向けているけれども、感情を超えて心情に突入する自分に変身することだ。心情主義という言葉は聞いているけれどもその言葉の意味を悟って心情主義に生きようとはしていない。犠牲を心晴れやかに供えることで心情主義に生きる自分を用意する。感覚世界は地上のことで終わるけれども、心情世界は地上でも通じ天上でも通じる。感覚世界の次元は極めて限定的であるのに対し、心情世界の次元のまたがりは際限がない。限られた感覚世界を際限のない心情世界が何層もの次元にわたって包み込んでいるイメージだ。地上の文化、とりわけ感覚世界の喜びを享受できる科学文明はルーシェルによるものだ。しかしそれを否が応でも否定しようというのではない。現実世界に生きるためにはルーシェルの光の部分の肯定も必要だ。しかし肯定したとしても、それによって感覚世界に執着するのであればルーシェルの末裔であることを証している。感覚の光を浴びること以上に心情の光を浴びようとするのが天の祝福を賜った天の真の子女だ。

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