2016年10月28日金曜日

今日の想い 937

がんじがらめの不自由さの中に自由がある、というのは長渕の歌だけれども、その歌詞の通り、献身という枷をはめることで自由の本当の意味を掴もうとしてきた、と言える。私が霊的な解放圏自由圏を得るためには、体である生活に枷をはめるのみならず、魂の領域、すなわち自分の心にさえ枷をはめることで得ることができるのだが、献身の動機を問われてもそんなことは考えだにしなかったわけで、実は3年で天国ができると言われてその言葉を真に受けて献身したという何ともお粗末な私だった。しかし3年も経てば流石の私もわかってきて、その都度信仰している動機を御利益的なものから修正し続けて今に至っている。不自由さの中に自由があるように、貧しさの中に本当の意味での富があり無欲で思慮不足にみえる行動の中にこそ叡智が働く。そのように霊的に得るものとは概して逆説的なものだ。霊的なものを認めない者にとっては私達は無能な集団にしか見えないだろうが、彼らに見えず私達に見えるものが確実にある。見えるものというより実感できるものと言ったほうがいいかも知れないが、霊的なものや霊界を信じない彼等にもっとも説明しやすい事実として死がある。死後の世界がなければ別に死を恐れる必要はないのだが、それでも彼らは死を恐れるという不可解を自覚している。私達は死後の世界、霊界があることを信じてもいるし地獄の存在も信じている。しかしそれでも死を恐れることはない。死というイメージもないほどに私達にとって死は霊界への新しい誕生を意味している。しかし死が遠い先の無きに等しい若者であっても死の他にも多くの恐怖が存在している。彼らが認め彼らが頼みとする地上の価値はますます崩れて行き、地上に生きる価値をもはや見出せなくなるほどだ。信頼していた者に裏切られ、社会は益々冷たくなり、おそらく最も価値あるものとされ幸福の度合としてきたお金も、そのうちにそれがただの紙切れになり口座の数字も何の意味もなさなくなってしまう。現状はというと、国は国家破綻して当然に思える莫大な負債を抱えていながらも、社会は未だにそれなりの価値をお金という中央銀行券においている。砂上の楼閣どころか蜃気楼に住んでいるようなものだ。白昼夢から目覚めざるを得ないときがやがてくる。価値あるものと認識してたものがことごとく崩れ去り、人間として霊的柱を持たない者達は狂うか痴呆になるしかないだろう。素面ではとても環境の現実を直視できないからだ。外的には辛い冬の時代が到来するのであり、さしずめ今は冬を間近に控えた晩秋だろうか。霊的に生まれ(霊的基盤を持った魂として生まれ)ているかどうかという真の生命が問われる時代にいよいよ入っていく。霊界で価値あるものが地上でも価値を発揮する。人類は人類史上なかった霊肉の統一世界の入り口に立っている。

2016年10月14日金曜日

今日の想い 936(良神を立てて戦う)

心と体の戦い、という私の認識は、原理を学び自分の正体がわかり始めてから始まっている。勿論神霊とサタンとの戦いは始祖以降人間社会を舞台に繰り広げられてはきたが、人間個々に於ける心と体の戦い、魂の戦いは事実上食口になってからだろう。食口になったとは戦いの認識を持ったということだ。この世の人と私達食口の大きな違いはこの戦いの認識を持っているかいないかだ。祝福を戴いて御父母様の子女であることの意味はこの戦いの認識にある。食口にとって生きることは幸福の追求というより戦いに明け暮れる日々であって、もはや戦いから逃れることはできない。「善き戦いを為し終えて」とあるように善なる戦いであり戦いを為し終えるのは地上を去る時だ。たとえ信仰を捨てるとしてもそれでも戦いは続いていく。信仰を捨てて楽になるつもりが戦いは激しさを増していく。一度は御父母様を受け入れた自分をどうにも否定できないからだ。御父様が聖和されて、全食口はある意味それまでの信仰を卒業している。先天の信仰と後天の信仰はそのまま同じものとして続いているようだが既に卒業している。先天的信仰を保持しようとすればするほど戦いは複雑になる。食口にとって御父様がメシヤであるのは既に信仰による認識ではなく実体としての認識だ。しかし御母様が生まれながらに罪のない神の一人娘だという事に関しては新たな信仰を要求される。文字通りを信仰ではなく実体として認識するとなれば御母様の出自は御父様からということになってしまう。混乱を起こすその宣言を敢えてされた理由は二つしかない。私達に対して全く新たな信仰を願われているか、或いは、やがては公になる驚天事実を神側の先手として宣言されたかの二つだ。御父様が話されたマリヤのイエス様懐胎の新事実が、もしサタン側からなされていたら、復帰摂理はさらに延長され人類は多大な犠牲を強いられていただろう。しかし知ってか知らずかサタンは懐胎の秘密に触れることはなく御父様が先手を取られた。そのように御母様も先手を取られての発言ということもありうる。御母様は神様を天の御父様ではなく天の父母様とされ、家庭盟誓を書き換えられ、天一国の国歌も変えられ、み言葉集も新たに編纂された。それらが為されたのは新たな信仰の要求でありその流れで独生女宣言もされた。しかし私は御母様が権威を望んでそのようにしておられるとはどうしても思えない。そんな風を装われながら天と御父様、さらには人類の救いに対する責任心情を動機とされ、その行動には御母様の深い知恵が隠れているように思える。私達は霊的平衡感覚を失う渦の真只中だ。戦いはいつも厳しいものだが、それでも今までの戦う相手は明白で単純だった。しかし今の戦いは顔が見えない。見えないどころか新しく確立すべき信仰がどういうものかもわからない。だから戦う基準すら定かでない。それ故に御母様の発言や指示に対して違和感を覚えてしまう。善き戦いをすべきで悪しき戦いは消耗戦だということはわかる。しかし戦い続けて基元節を超えるには超えたが、今は善悪が入り乱れる状況で霊的な流れは渦状態にある。今まで以上に良神をしっかり立てなければ、渦に巻き込まれたまま私の信仰生命を失いかねない。創造は混沌から始まった。この混沌が昼の神様による新生宇宙、新生地球、そして新生私の創造の初めだろうか。夜の神様としての御父様を中心とした摂理から昼の神様としての御母様の摂理の出発だろうか。

2016年10月8日土曜日

今日の想い 935

誰一人同じ世界に住んでいる人はいない。同じ外的環境圏にあっても異なる世界に住んでいる。御父様の言葉を借りるなら、それぞれが霊界を背負って歩んでいる。五感を通して外的に接触しながら、お互いの世界に影響を及ぼし合っている。ある者は自分の世界から与え、ある者は他の世界から奪い、奪いながら大切なものを失っている。奪うことで執着による霊的空気を益々重く濃くし、霊的には息苦しくなる。地上世界は愛が地上化された光によって作られている。あらゆる万物も物質も実は光の圧縮で成り立っている。逆に霊界の全ては愛の圧縮で成り立ったている。愛の圧縮度合で空気的なもの、水的なもの、そしてあらゆる個体的なものが存在している。外なる世界は光の世界であり内なる世界は愛の世界だ。そしてそれぞれの人間の霊界は、地上に於いて内なる世界、外なる世界であったものが裏返して私の霊界として現れる。与えることの大切さを教えられた私達は本当に与えてきただろうか。与えることが本当に与えたことになっているだろうか。与えることで愛の空気が私の霊界に満ち満ちているだろうか。与えることが建前で、本当は奪ってきた過去はなかっただろうか。富める者はますます富むように、与える者はさらに与えることができる者とされるはずなのに、そうなっているだろうか。私自身、天の道理を肌に感じて歩んできたかと問われれば口ごもってしまう。私は今、本当の意味で感謝もしていなければ愛してもいない。御母様の「感謝します」「愛します」の言葉には、御母様に対して「では御母様、私が理解できるように行動してください、私を愛してください」と言葉を返してしまっている。御母様から受けること、さらには奪うことを喚起する言葉ではないはずなのに、返す言葉に恨みがましくそう呟く私がいる。感謝もされず愛されもしていないのに感謝できるだろうか愛せるだろうかという次元で足踏みし、感謝したい愛したいという次元までも届いてはいない。愛の衝動を今の私の中に見いだせない。私が背負っている霊界のなんと息苦しいことだろう。なんと狭量的な世界だろう。それを思うと摂理のためだと行動し徳を積み上げてきた認識はがらがらと崩れ去る。教会に頼って長く生きたことが、信仰だと繋いできた年数が、今は逆に仇になる。だからといって外界に目を向ければ、堅固に見える現実が居座っている。この変わる様子もない社会の現実はいつまで続くのだろう。今の社会が変わりなく続く限り、地上での私達は遥か宇宙の彼方から地球に来た仮のあばら家に住まう宇宙人に過ぎない。何もできない宇宙人だ。この地球が私達の故郷だと真に思えたことはただの一度もないだろう。イスラエルの民がカナン七族に染まってしまったように、もし私達がこのまま世間に染まってしまうなら、中心的存在としての第四アダムの再臨を本当に待たなければならないのかもしれない。

2016年10月4日火曜日

今日の想い 934

いつのいかなる場面でも私は最終判断を下すことをやめなければならない。その結論は誰によるのでもなく私がその結論を引き出した、ということがそもそもの問題だからだ。原理をかじった者達のブログを見渡せばかじった原理を自己流に操り、それによって出された自己流判断のオンパレードだ。その結論ありきで評論し批判非難がなされている。アダムとエバは神様に尋ねることをしなかったから堕落した、と言われるのはアダムはアダムなりに、エバはエバなりに自己流判断を下してしまったということだ。エバが堕落するとき不安や恐怖を覚えたこと自体が、取って食べてはならないという戒めは神様(良神)から来たものだということを霊的に認識させたのであって、別に聴覚を通して頭に認識された戒めではないはずだ。あくまで植え付けられた良心作用が戒めそのものだった。その良心作用を追い遣るものが非原理的愛だった。アダムとエバの愛か偽りの愛かの問題は、今の人間関係に於ける貞操か不倫かで判断するような道徳的なものでも感情的なものでもなく、備わっていた良神(心)という神様が許すのか許さないのか、不安を覚えるのか平安にあるのかという、もっとも侵してはならない基本中の基本の愛だった。そんな基本の愛を蔑ろにして人間を万物以下にさせたものだから後孫からのバッシングを半永久的に受けることになる。その恨みがどれほど大きいか。罪の歴史、サタンの血統の歴史が6000年にわたって流れてきた。しかし真の父母が立つことでこれからは神の子女の歴史、神の血統の歴史が流れていく。神の千年王国は出発したばかりだ。アダムとエバもカインとアベルも自己流判断で失敗した。その轍を私達は踏むのではなく、判断は神様、すなわち良心(神)に委ねるしかないということだ。誰が正しいのかという論理の判断に任せるのではなく私の良心(神)に委ねる。ということは良心(神)が自分の中に立っていない者は摂理を牽引し千年王国の中心的存在にはなれない。誰の言い分が正しいのかということに躍起になっているが、そこに意識を釘付けにすれば摂理からは既に外れている。誰に付こうが付くまいが、或いは誰にも付かないという選択も含めてそんなことはどうでもいい。所詮そこには何らかの政治的なものや感情的な好き嫌いが選択に隠れている。そんなことより自分の出自はどこかと問うときに御母様の胎から、というのはわかりきっている。御母様を否定したら御父様を否定すると同じように私は存在しない。だから御母様に付くべき、というのではなく、親の心情を蔑ろにしたくないという想いが自分の良心の声にもっとも近い。責任者の問題は金銭問題やアダムエバ問題以上の問題として、御母様の権威ではなく御母様の私達への想い、人類の母としての心情を伝えていないことにある。