2016年10月8日土曜日

今日の想い 935

誰一人同じ世界に住んでいる人はいない。同じ外的環境圏にあっても異なる世界に住んでいる。御父様の言葉を借りるなら、それぞれが霊界を背負って歩んでいる。五感を通して外的に接触しながら、お互いの世界に影響を及ぼし合っている。ある者は自分の世界から与え、ある者は他の世界から奪い、奪いながら大切なものを失っている。奪うことで執着による霊的空気を益々重く濃くし、霊的には息苦しくなる。地上世界は愛が地上化された光によって作られている。あらゆる万物も物質も実は光の圧縮で成り立っている。逆に霊界の全ては愛の圧縮で成り立ったている。愛の圧縮度合で空気的なもの、水的なもの、そしてあらゆる個体的なものが存在している。外なる世界は光の世界であり内なる世界は愛の世界だ。そしてそれぞれの人間の霊界は、地上に於いて内なる世界、外なる世界であったものが裏返して私の霊界として現れる。与えることの大切さを教えられた私達は本当に与えてきただろうか。与えることが本当に与えたことになっているだろうか。与えることで愛の空気が私の霊界に満ち満ちているだろうか。与えることが建前で、本当は奪ってきた過去はなかっただろうか。富める者はますます富むように、与える者はさらに与えることができる者とされるはずなのに、そうなっているだろうか。私自身、天の道理を肌に感じて歩んできたかと問われれば口ごもってしまう。私は今、本当の意味で感謝もしていなければ愛してもいない。御母様の「感謝します」「愛します」の言葉には、御母様に対して「では御母様、私が理解できるように行動してください、私を愛してください」と言葉を返してしまっている。御母様から受けること、さらには奪うことを喚起する言葉ではないはずなのに、返す言葉に恨みがましくそう呟く私がいる。感謝もされず愛されもしていないのに感謝できるだろうか愛せるだろうかという次元で足踏みし、感謝したい愛したいという次元までも届いてはいない。愛の衝動を今の私の中に見いだせない。私が背負っている霊界のなんと息苦しいことだろう。なんと狭量的な世界だろう。それを思うと摂理のためだと行動し徳を積み上げてきた認識はがらがらと崩れ去る。教会に頼って長く生きたことが、信仰だと繋いできた年数が、今は逆に仇になる。だからといって外界に目を向ければ、堅固に見える現実が居座っている。この変わる様子もない社会の現実はいつまで続くのだろう。今の社会が変わりなく続く限り、地上での私達は遥か宇宙の彼方から地球に来た仮のあばら家に住まう宇宙人に過ぎない。何もできない宇宙人だ。この地球が私達の故郷だと真に思えたことはただの一度もないだろう。イスラエルの民がカナン七族に染まってしまったように、もし私達がこのまま世間に染まってしまうなら、中心的存在としての第四アダムの再臨を本当に待たなければならないのかもしれない。

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