2016年10月4日火曜日

今日の想い 934

いつのいかなる場面でも私は最終判断を下すことをやめなければならない。その結論は誰によるのでもなく私がその結論を引き出した、ということがそもそもの問題だからだ。原理をかじった者達のブログを見渡せばかじった原理を自己流に操り、それによって出された自己流判断のオンパレードだ。その結論ありきで評論し批判非難がなされている。アダムとエバは神様に尋ねることをしなかったから堕落した、と言われるのはアダムはアダムなりに、エバはエバなりに自己流判断を下してしまったということだ。エバが堕落するとき不安や恐怖を覚えたこと自体が、取って食べてはならないという戒めは神様(良神)から来たものだということを霊的に認識させたのであって、別に聴覚を通して頭に認識された戒めではないはずだ。あくまで植え付けられた良心作用が戒めそのものだった。その良心作用を追い遣るものが非原理的愛だった。アダムとエバの愛か偽りの愛かの問題は、今の人間関係に於ける貞操か不倫かで判断するような道徳的なものでも感情的なものでもなく、備わっていた良神(心)という神様が許すのか許さないのか、不安を覚えるのか平安にあるのかという、もっとも侵してはならない基本中の基本の愛だった。そんな基本の愛を蔑ろにして人間を万物以下にさせたものだから後孫からのバッシングを半永久的に受けることになる。その恨みがどれほど大きいか。罪の歴史、サタンの血統の歴史が6000年にわたって流れてきた。しかし真の父母が立つことでこれからは神の子女の歴史、神の血統の歴史が流れていく。神の千年王国は出発したばかりだ。アダムとエバもカインとアベルも自己流判断で失敗した。その轍を私達は踏むのではなく、判断は神様、すなわち良心(神)に委ねるしかないということだ。誰が正しいのかという論理の判断に任せるのではなく私の良心(神)に委ねる。ということは良心(神)が自分の中に立っていない者は摂理を牽引し千年王国の中心的存在にはなれない。誰の言い分が正しいのかということに躍起になっているが、そこに意識を釘付けにすれば摂理からは既に外れている。誰に付こうが付くまいが、或いは誰にも付かないという選択も含めてそんなことはどうでもいい。所詮そこには何らかの政治的なものや感情的な好き嫌いが選択に隠れている。そんなことより自分の出自はどこかと問うときに御母様の胎から、というのはわかりきっている。御母様を否定したら御父様を否定すると同じように私は存在しない。だから御母様に付くべき、というのではなく、親の心情を蔑ろにしたくないという想いが自分の良心の声にもっとも近い。責任者の問題は金銭問題やアダムエバ問題以上の問題として、御母様の権威ではなく御母様の私達への想い、人類の母としての心情を伝えていないことにある。

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