2017年5月16日火曜日
今日の想い 945
揺れ動く中で暫定的世界はどこに向かうだろうか。アメリカが民主的世界制覇を否定したから世界の流れのベクトルは方向を変えていく。今世界は乱気流状態だ。民主と共産の二大勢力が台頭してきたが、民主国家群がアベル、共産国家群がカインだと単純には言えない状態になっている。個人の中の戦いとして心と体の戦いが続いてきたが、それでも心が主体であり体が対象であることが人格を備える個人の証だった。信仰を持つ者は特にそうで、自分なりのみ言葉の核が心の大きな部分として信仰主体の人格を備えてきた。しかしその心の中に疑いというバイラスが侵入している。ちょうどアメリカにアメリカファーストというバイラスが侵入したようにだ。その霊的バイラスは疑いを解こうとして問えば問うほど感染していく。そうして論理の底なし沼に落ち込んでいく。人間は魂の活動、すなわち知情意の活動を続ける存在だけれども、心情は知情意を超えたところにあり魂の主体として見いだせることを学んでこそ信仰生活を続けてきた意味がある。御父様がその存在を私達に教えたかったのは心情であり心情を捉えることが神様を捉えることで、神の血統も心情を相続した者が血統圏に繋がれた者として認められる。決して祝福を受けたという事実だけで繋がれる訳でも御父母様の親族に加わることでもない。もちろん祝福を受けることでその道筋が備えられるというのは確かにそうだが祝福=血統圏ではない。ではこの乱気流状態で主体対象がはっきりしておらず、善神の業なのか悪神なのかわからない状況でアップアップしている状態に神様はどう働いておられるのだろうか。受け取る心情とはどういう心情だろうか。今までその事を曖昧にしたまま、神様、すなわち心情の存在を御父母様や祈りの対象に置くという、それは私の中におられる神様を見出せず取り敢えず外に備えるという長生的な神様認識であり、後天時代 は完成的認識が必要であって長生的認識のままであろうとすれば時代にそぐわない。御父様が良心革命と言われ神様を良心の中に見出す、すなわち私の中に見出すこと、私が心情を備えることを教えて下さったことがどれほど大きな祝福だろうか。このように世界が揺れ動き、食口に於いては信仰の主体においていたものが揺れ動き、そうなると主体存在を私の中に見出した者、良心の中に見出した者は揺れ動かない。外的には揺れ動いているようでも動かない。主体を外に置いている者から見る御母様と、主体を内に見出した者が内から見る御母様とは全く異なる。それは霊的なる位相を捉えれられるかどうかということでもある。
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