2017年6月14日水曜日

今日の想い 952

「愛する」という言葉ほど抽象的に捉えている言葉はないかも知れない。み言葉の中に愛という言葉は山ほど見つけられるけれども、当然理解していると納得済みで素通りしている。しかしその理解がどれほど曖昧で掴みどころのないものか、自分に問えば問うほど愛の概念は手からすり抜けていく。使い古された愛の観念ではなく、真の愛の概念を受け取って欲しい故にあらゆるみ言葉を差し出されたと言っても過言ではないとさえ思っている。み言葉は愛の教科書であり地上生活は愛の訓練場だ。それぞれに愛の何たるかを受け取り、それを携えて霊界に生まれ天上生活が始まる。み言葉に一貫しているのは愛を受け取る教えではなく愛を与える教えであり、「愛する」という能動的愛であり為に生きる愛だ。しかし与える行為と同時に引き受けるものがあってそれは責任であり、責任の全うをして与えたことを認可される。むやみやたらにお菓子を配り歩くことで愛したことにはならない。献金し続けることそれ自体が天を愛することにはならないし、聖酒を飲ませることそれ自体が祝福の終結ではない。献金したことの教会に対する責任を取らなければ献金は流れていくのであり、聖酒を飲ませた相手に対する霊的生命の責任を取らなければサタンに奪われていく。自由に責任が伴うのは先ず愛する意識が最初にあって責任を引き受け、責任を引き受けるがゆえに自由という概念が生まれるのであって、最初に自由があるのではない。愛(神様)と自由(ルーシェル)、O(他体優先)とX(自体優先)の関係の中で人間(アダムとエバ)は自由を最初に選びX化(固体化)を早めてしまった。それゆえに人類は遥かな時を費やして蕩減という愛(神様)への初期化責任を引き受けてきた。蕩減を研究すれば愛の意味を論理的には捉えることができるかも知れないが、その概念は責任を取る者しか学べない。今まで摂理だといわれて多くのことに手を出してきた。しかし失敗したことに対して誰が責任を取っただろうか。失敗する以前に手を出すことへの責任を引き取っていないのだから成功するはずがない。だから離れた食口からお花畑だと揶揄されてしまう。揶揄されて当然だろう。責任者達の責任もさることながら現場で歩む食口達ですら責任感情を持ち合わせていない。要するに天を愛すると言い、為に生きると言い、中心の願いに応えると言いながら責任の所在を有耶無耶にしてきた結果が今の状況だ。前にも言ったように「愛する」という言葉と「責任を取る」という言葉は同義語として捉え、責任感情も持たずに事に及べば全て流れ去る。こういう事業をしたい、こういう店を開きたい。それはそれでいいだろう。しかし資金をどうするのか。持ち合わせている所から出させて使う、そこで既に責任の所在が失せている。これからは何らかの担保が必要であり担保がなければ指の一本でもかけるべきだ。そうでもしなければ全て失せてしまうし、食口でありながら愛することの意味も分からず霊界で彷徨うことになる。

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