2017年6月13日火曜日

今日の想い 951(大海に生きる)

「教会に通っている自分に安心しますか。御写真の前で祈祷している自分に安心しますか。献金しているという自分に安心しますか。訓読している自分に安心しますか。安心することで満足しますか。アダムエバ問題も、公金問題も、犯していないという自分だから安心しますか。」安堵に胡坐をかいて生きるのが御父母様の願いであり私の良心の願いだろうか。責任者たちは尻に火がついた状態だろう。何が起こってもおかしくない。責任者の誰もが、食口達が揺れに揺れていることを知っているし、いつ教会基盤が崩れてもおかしくない。内情は既に崩れていて責任者は張りぼてを維持するので精一杯かもしれない。責任者達の安堵も崩れ内的戦いの真っ只中だ。食口達に安心を売って教会に繋ぎ止めようと必死だ。確かに先天時代は不安をはらうために歩んでいたから安心を買うためにあらゆる摂理に付き従ってきた。清平摂理もそのひとつだ。天にすれば別の思い入れがあるのだが地の食口にすれば不安をはらい安心を得るためだった。天はそれを利用したとも言える。しかし御父様が聖和されて、御家庭で様々な言い分に立たれる子女様がおられ、御母様は御母様で驚天動地の宣言をされ、それに振り回される不安な私達は明らかにどこに安心があるかを手探りしている。しかし安心基盤が崩れることが摂理であり、安堵の大地の液状化、すなわち大地が大海になること自体が摂理だと未だに気付けない。後天時代を生きる真の食口は大地に生きるのではなく先ず大海に生きる必要がある。大海の大波に揺れ続ける状況の中で自分という船を良心という羅針盤で導いていく。新たな大地は必ず出現する。それは決して安心を求める先にあるのではなく、良心の願いに生きることを突き詰めた先に出現する。食口達は全人類の代表であり摂理の先端を歩んでいる。私達が大海を航海し新生大地を踏みしめてこそこの世界の平安も訪れるのであって、私達は人類の霊的導き手であり霊的指導者であることを忘れてはならない。自分のために、すなわち自分の安心と安堵のために、不安や恐怖心を避けるためにこの道を歩んでいるのではない。

0 件のコメント: