2017年6月4日日曜日

今日の想い 948

敢えて皆の前で、私はグループ派につきますと宣言される。かつてはサンクチュアリにつきますと宣言された御仁もおられた。公言されるのは皆の同意を誘い出し、皆が私に従って行動を起こすことを期待しての事だろうか。少なからず影響はある。食口が見上げる立場におられたその特権を、謙虚な言葉でもって行使しようとされる。立派な方達の信仰も、現場で心身を擦り減らして立てる信仰も、同じだと思われているから自身の処し方を敢えて公言されるのだろう。私にすればその言葉遣いが優しく謙虚であればあるほど、信仰者が陥る傲慢さを垣間見る。言葉で責められ棒切れで叩かれながら実績要求されてきた現場がどれほど過酷だったか、その実情を黙認し、ホームで神霊指導や実績の電話受けばかりしてきたお偉い方にはきっと理解できないだろう。罪というよりは自分の弱さを痛いほど思い知らされる。それこそ自分が何の価値もない存在だと追及につぐ追及で追いやられる。有難い天国の話で架空の人参をぶら下げられ地獄の底を這いずり回る。おそらくそんな醜悪な現場は経験されなかったのだろう。御父様に直接声もかけられ、公金問題もアダムエバ問題も他人事で、立派な祈祷を口にしても負債も白々しさも感じることはなく、皆の前に立つのも堂々としていてみ旨に向かう話しに淀みない。謙遜を装う自惚れ意識がなければ信仰集団の責任者にはなれない。その特異な信仰観が、本人はもちろんそう思ってはおられないが、混乱をさらなる混乱に陥れる。土より劣る身、穢れ果てし我は、原理が云々でもなく愛されたことへの云々でもない。地の底を這いずり回り息も絶え絶えになりながらそれでも生きる力を得ようとし、感謝できない愛されない暗闇に追い込まれながらそれでも感謝する力、それでも愛そうとする力を得ようとし、心情にこそ根っこがあることを思い知らされた信仰観だ。自分が理解した原理と食い違おうがそんなことでは怯まない。自分がイメージしている御父母様像、御家庭像と食い違おうがそれも良しとする。今の混乱の時こそカインがアベルを超えて勝利圏を立てる時だと待ち構えていた者達もいる。小奇麗なアベルの信仰観では今を超えられない。随分スマートに檀上で離教宣言しておられるが、お話を聞いて頷きもし慕ってもいた多くの食口達の混乱をどう責任持たれるのだろうか。中には夫婦の間で意見が異なってしまい、地上界霊界までも夫婦一体圏であるべきなのに離れざるを得ないという、もっとも尊ぶべき家庭の価値を宗教的権威で粉々に打ち砕いている現実をどう思われるのだろうか。本人がさっぱりすればそれで済むことだろうか。形あるものは崩れる。組織も崩れる。家庭連合になったのは教会が崩れたからだ。名前を変えた教会だと思い、教会に神様がいて教会あっての自分だと思うからどこの組織に神様はいるのかと渡り歩く。外に神様を求めるのではなく自分の中に神様を求めなければならない。良心を通して神様は働いておられる。もし良心に従って行動されたというなら、それ以上返す言葉は私の中にはない。

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