2017年6月5日月曜日

今日の想い 949

古代の人間は現代人が生きて地上生活をするのとは異なる生活空間に生きていた。外的な地上環境圏に埋没して生きるのではなく、内的な霊的環境圏をも生きていた。霊的環境圏の影響の方が遥かに強かった。古代人が現代にタイムスリップして現代人を把握しようとすれば、行動の背後の霊的影響を把握して存在の在り様を判断するのであり、現代人の知情意の在り様に対しては疎くて正しく把握できるとは思えない。怒ろうが泣こうがその人の感情に、あるいは知識や技術を持っていようがその人の思考に、古代人は現代人ほど反応することはない。そういったことに対しては無頓着といっていい。そこでなるほどと思えるのは、食口の中に意外とこの種に近い人間が多いことが伺える。食口はある意味本質的であるけれども知情意に於いては未成熟で疎い古代人ということだ。ここで言う霊的環境圏=善霊界ではないからそこは踏まえておかなければならない。タイムスリップした古代人は現代人が言葉を使うことに対して、或いは言葉を書くことに対して、他のどんな行動よりも目を見張る。言葉を使う事が古代人にとっては魔術として映り、それは白魔術でもあり方向性が狂えば黒魔術でもあり得、喉が霊的器官であり手が、とりわけ右手が霊的器官であることがよくわかる。感情の赴くままに言葉を発し、ある思考に固定したまま言葉を連ねるなら、それは悪神の思うまま悪神の手先となって黒魔術を施すことになる。天の血統圏に繋がろうとしている食口であれば、知情意の魂の原因である霊的内容を見定めて、自分の感情や思考、行動が何に起因するのか見届け、それが天的なものなのか堕落的なものかを見通してこそ正しく天の血統圏に繋がろうとしている。み言葉がいかに私の魂の活動に生きているかが問われている。み言葉の力はこれは正しいとかあれは正しくない等の枷を嵌めてしまう教条的な戒め役割ではなく、魂の活動としてみ言葉が生きてこそ私達はみ言葉を受け入れ、み言葉が血となってその流れの輪郭として霊人体が表象される。溢れる疑問に対してあれこれ詮索する時間があるならみ言葉を耽読しみ言葉を諳んずべきだろう。感情や知識で御父母様の本質を捉えるのではなく、知情意の活動の背後、意識下でこそその本質的価値が伺える。簡単に言えば眠っている(死んでいる)時の私が御父母様の本質を捉えることができるのであって、起きている地上の私がどれほど知的感覚的に、あるいは感情として捉えても所詮イメージの枠を超えることはない。だから魂の領域を否定しろというのではなく、地上の知恵を通して求め続けろということであり、イメージを得たり壊したりしながら地上に於いて本質を捉えることができる、という信念こそが御母様に向かう信仰観だ。固定したイメージに執着しなければ起こりうるあらゆる事態に能動的に対処できる。すなわち本質の新たな側面を享受できる。御母様の宣言は本質を裏側から見る、あるいは内側から見るほどの画期的宣言であり、月の裏側を見るどころか宇宙全体を宇宙の外から見るほどの内容だ。これをはなから受け付けず完全否定してしまう訳にはいかない。

0 件のコメント: